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ジャパニーズウイスキーの歴史~世界五大ウイスキーへ成長するまでの苦闘150年

想像してください。

あなたは今、郊外のスーパーマーケットで【酒売り場】に立っています。

まずワイン売り場に進んで見ますと……フランス、ドイツ、チリ、アメリカ、オーストラリアと様々な国のものが並んでいます。時折、山梨産も目に入りますかね。

次はビール売り場へ。

サントリーやキリン、アサヒ以外に、イギリス、ドイツ、ベルギー、アメリカ、オーストラリアなど各国色とりどりの缶やビンが並びますね。

最近は、中国やインド、タイなんかも目立つかな。

そして最後。

今度はウイスキー売り場を思い浮かべていただけますでしょうか。

ここで販売されているのは、

・スコットランド
・アイルランド
・アメリカ
・カナダ

そして日本のものだけです。

なんとな~く感じていたかもしれませんが、上記の【世界五大ウイスキー】生産国には、特徴があります。

原産国(スコットランドとアイルランド)と、原産国系の移民国家(アメリカとカナダ)に限られるということ。

自然発生的に各地で出来て、伝播していったワインやビールとは異なり、ウイスキーは原産国の歴史とからみあっており、なかなか作られないものでした。

ならばナゼ、日本はその例外なのか?

これには先人たちが抱いた情熱があったのです。

本記事で、ジャパニーズウイスキーの歴史を振り返ってみましょう。

※世界五大ウイスキー以外にもドイツやインドなどでの生産もあります

 


黒船とともに洋酒もやって来た

日本人とウイスキーの出会いは、ペリー来航の嘉永6年(1853年)でした。

ペリー側が浦賀で待機しておりますと、浦賀の与力である中島三郎助、香山栄左衛門らが乗船。

※以下は「中島三郎助」の関連記事となります

中島三郎助
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彼らの優雅な仕草と溢れる教養に、ペリーも驚きます。

「ようこそ! さあ、一杯どうぞ」

アメリカ側は、何種類かの洋酒をふるまいました。

洋酒を楽しんだ与力たちは、明るさと陽気さを見せて、リラックスした様子です。

マシュー・ペリー/wikipediaより引用

ペリーの随行員スポルディングの記録には、こう書いてあります。

『日本の香山という高官は、とてもお酒が好きなようです。特にウイスキーがお気に入りのようで、顔を真っ赤にして帰って行きました。』

幕末の日本人は、慣れぬ洋食に四苦八苦したものです。

ただし例外はありまして。

初めて口にした時から好きになってしまうものもあったようです。

特に、酒と果物に関しては「こりゃうまい!」と気に入る人も多かく、香山もその一人だったのでしょう。

ほろ酔い加減の香山は、こう言いました。

「あなたがたと別れるなんて、とても悲しくて涙が堪えられません……」

本心もありましょうが、やっぱり酔っ払っていたんでしょうかねえ。もっと飲みたかったとか?

いずれにしても、なかなかホロッとしてしまいそうな台詞です。

この様子を見て、アメリカ側は「日本人はウイスキーが好きなんですね!」と思ったのでしょうか。

翌年のポーハタン号船上パーティでも、幕臣たちはウイスキーを含めた酒を楽しんだとされています。

徳川家定にも、ウイスキー1バレルが献上されたそうです。

家定が口にしたかどうかは不明ですが。

徳川家定/wikipediaより引用

 


ウイスキーは高嶺の花

幕末から維新にかけて、日本は西洋化してゆきます。

外国人向けのホテルのバーでは、ウイスキーが出され、当時、横浜のカルノー商会が輸入していた「猫印ウヰスキー」に人気が集まりました。

ただ……このウイスキーの正体には謎な部分がありまして。

獅子の紋章を猫と見間違えたのか、それとも猫の印が入ったものがあったのか。いずれにせよ正体不明なのです。

洋酒の人気というのは、政治情勢とも絡んでいるようです。

江戸時代後期からナポレオンの伝記が伝わって以来、日本人の中にはフランスへの好意的感情がありました。

ナポレオン/wikipediaより引用

それが普仏戦争大敗でフランスの国力が衰えて以来、ちょっとブレーキがかかってしまうのですね。

その結果、ブランデーの人気も落ちてゆきました。

かわって注目を浴びたのが、ウイスキーです。

日英同盟で、日本の強力な同盟相手となったのが、イギリスです。

酒もブランデーより、イギリスのウイスキーを飲もうじゃないか、という考えになってもおかしくないところ。

しかし、高級ホテルのバーや、鹿鳴館でならいざしらず、輸入品しかない高級ウイスキーは庶民にとって高嶺の花です。

そんな需要を見越して、薬種問屋で販売を始めたのが模造ウイスキー(イミテーションウイスキー)でした。

輸入した酒精アルコールに、香料とカラメル等着色料を添加したんですね。

あくまで、なんちゃってウイスキーに過ぎないのでした。

 


スコットランドへ飛んだ竹鶴

このままでは、日本人は模造ウイスキーを本物だと思ってしまう――。

そんな状況を見て、危機感を募らせたのが摂津酒造の社長・阿部喜兵衛でした。

日本人も、本物の国産ウイスキーを作るべきではないだろうか。

そう考え、社内の若手技師に誘いをかけたのです。

「竹鶴君。本場でウイスキーを学んでみる気はあるか?」

「はい、もちろんです!」

竹鶴政孝は明治27年(1894年)、広島の「竹鶴酒造」の三男として生まれました。

竹鶴政孝の生家/photo by K.F. wikipediaより引用

厳しい職人であった父から厳格なものづくりへの情熱を学び、大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)で理論も学習。

好奇心旺盛で負けん気が強く、まさにうってつけの人物でした。

1918年(大正7年)、神戸港で大勢の人に見送られながら、竹鶴はスコットランドへ。

しかし、グラスゴー大学に籍を置くだけではウイスキー作りを学ぶことはできません。

19世紀末のグラスゴー大学/wikipediaより引用

竹鶴は大学で学ぶ傍ら、文献調査に励みました。

そこで入手したのがJ.Aネトルトン著“The Manufacture of Whisky and Plain Spirit”です。

この本は現在でも使えるほど素晴らしいウイスキー作りの一冊。

これだけでは納得できないのが竹鶴でした。

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