こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【ジャパニーズウイスキーの歴史】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
国産ウイスキー第一号「白札」の失敗
1929年(昭和4年)、ついに国産ウイスキー第1号となる製品が世に送り出されました。
「サントリー白札」(現サイントリーホワイト)です。
宣伝にもこだわりました。
「醒めよ人! すでに舶来盲信の時代は去れり 酔わずや人 我に國産至高の美酒 サントリーウヰスキーはあり!」
これからは国産ウイスキーの時代だ、そう高らかにうたう広告が、全国紙を飾るのです。
価格は4円50銭。
当時の輸入ウイスキーでも4円台からありましたから、かなり強気な価格でした。
しかし……。
「なんやこれ、煙臭いわあ」
「焦げとるんかいな、これ」
「薬臭くて飲めたもんじゃねえなあ」
散々な評判でして。
壽屋(ことぶきや)は、返品の山を抱えることになってしまうのです。
このあたりは、ウイスキーの構造的欠点です。
ウイスキーのピート臭は、イングランド人でも当初は敬遠したほど。
“田舎者の密造酒”がイギリスの名産品に成り上がる~スコッチウイスキーの歴史
続きを見る
熟成期間も不足していました。
蒸留所ができてからわずか5年ですから、熟成期間はもっと短いでしょう。
これではまろやかさよりも、荒々しい風味が前面に出てしまっても、仕方ありません。
白札の失敗を受けて、1930年(昭和5年)には「赤札」(現在サントリーレッド)が発売されたものの、こちらも売れません。
サントリーのウイスキーがヒットしたのは、1937年(昭和12年)発売の「サントリーウヰスキー12年」(現サントリー角瓶)がはじめてのことです。
日本人の味覚にあう商品への試行錯誤ももちろんありましたし、原酒の熟成がやっと十分になったということも、大きな要素でした。
このあと、戦争を経て1950年(昭和25年)に発売された「サントリーウイスキー黒丸(現サントリーオールド)」も大好評。
サントリーウイスキーは、日本人にとって欠かせないものとなったのです。
ちなみに「白札」と「赤札」も、現在ではそれぞれ「ホワイト」と「レッド」という名前でサントリーの廉価版定番商品として定着しています。
竹鶴、余市で理想のウイスキー作りを行う
「白札」、「赤札」と失敗を重ねる中で、竹鶴は鳥居との違いを感じるようになりました。
日本人の味覚にあわせ、和食とともに楽しむことを前提とした鳥居。
ともかく本場の味を大事にし、妥協しない竹鶴。
どちらが正解でもありません。
ただ、姿勢が異なったのです。
一切の妥協をしないウイスキー作りを自力でしたい――。
竹鶴は、次第にそう考えるようになりました。
そして1934年(昭和9年)。
10年間にわたる「壽屋」での勤務を終えて、竹鶴は円満退職「大日本果汁株式会社」を設立します。
竹鶴がここだと目を付けたのは、北海道余市町でした。
余市町は、明治維新のあと旧会津藩士の入植した町で、日本初のリンゴの栽培地です。
そのため、リンゴ加工品を作ることができました。
ニシン漁も下火となっており、漁師を人手として確保できます。
余市川の流れは、よい水でした。
気候もスコットランドによく似ており、なによりウイスキー作りに欠かせないピート(泥炭)も取れるのです。
本場スコットランドのウイスキーに近づけたい竹鶴にとって、ここはまさしく理想の土地でした。
1936年(昭和11年)、ウイスキー生産開始。
原酒を熟成する間は、リンゴ加工品を生産販売しておりました。1938年(昭和13年)からはアップルワインも販売しています。
そして初のウイスキーが発売されのは、1940年(昭和17年)のことでした。
しかし、当時は戦争の最中です。ウイスキーが売れるはずもありません。
敵国イギリスの出身だとして、愛妻リタが迫害を受ける中、竹鶴はジッと時を待つ他ありませんでした。
戦火の中で、ウイスキーは静かに熟成の時を待っていたのです。
戦後のウイスキーブーム
長い戦争がやっと終わった1945年(昭和20年)。
闇市では安酒が出回り、進駐軍がバーやキャバレーで痛飲している頃、被災を免れた原酒や穀物を用いて、ウイスキー作りは続けられました。
壽屋(ことぶきや)では1946年(昭和21年)に「トリスウイスキー」の販売を開始します。
安価なウイスキーは、庶民に手が届くとして人気を集めました。
昭和30年代には、東京や大阪といった大都市圏には、トリスが飲める「トリスバー」も大流行しております。
ここではトリスのソーダ割りである「ハイボール」を提供しました。
庶民が手を出せて、気軽に飲めて、大人気。
戦後になってようやく、当初の理想である日本人にとってのウイスキー環境が整ったのです。
ウイスキーとは、高度経済成長とぴったりはまった、そんな酒でした。
冷蔵庫の普及で、オン・ザ・ロックも気軽に楽しめるように。
「壽屋」は「サントリー」に、「大日本果汁」は「ニッカ(日果)ウヰスキー」に変更され、ウイスキーは国民的な酒となります。
1980年(昭和55年)、サントリーオールドは1200万ケースの出荷を達成。
1億4400万本という出荷本数は、世界一の売り上げ記録となりました。
ただし、ウイスキーというのは難しく、原酒生産量の調整が難しいのです。
1980年代をピークに、日本のウイスキーは低迷期を迎えます。
実は、今このことがマイナスの影響として響いているのです。
2010年代後半から現在にかけてのハイボールブームや、2014年放映の朝ドラ『マッサン』の影響でウイスキー消費量は再び増えました。
ところが、です。
1980年代以降の生産量低下によって、原酒不足という事態を招いているのです
今や、世界的にも名声を経て、国内外から熱い視線を集めるジャパニーズウイスキー。
意外や意外、現在、ピンチだというのです。
飲む人が増えたから生産を増やす、しかし30年後も人気があるかわからない。
ウイスキーはなかなか大変なものなのです。
ボトルに詰まった苦労と歴史。
そのことに思いを馳せつつ、今夜、一杯、楽しんでみませんか。
あわせて読みたい関連記事
あのペリーが日本人を接待していた?日米和親条約の交渉で用いたほのぼの作戦
続きを見る
脆弱どころか十分戦えた江戸幕府の海軍~創設の立役者・中島三郎助は箱館に散る
続きを見る
十三代将軍・徳川家定は愚鈍ではなかった? 幕末の政局で歪められた 真の人物像
続きを見る
幕末ナポレオンブーム!『那波列翁伝初編』を耽読した西郷や松陰
続きを見る
幕末明治の日英関係が思てたんと違う!新政府はイギリスの言いなり?
続きを見る
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
土屋守/輿水精一/茂木健一郎『ジャパニーズウイスキー (とんぼの本)』(→amazon)
土屋守『ブレンデッドウィスキー大全』(→amazon)