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ジャパニーズウイスキーの歴史~世界五大ウイスキーへ成長するまでの苦闘150年

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ジャパニーズウイスキーの歴史
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国産ウイスキー第一号「白札」の失敗

1929年(昭和4年)、ついに国産ウイスキー第1号となる製品が世に送り出されました。

「サントリー白札」(現サイントリーホワイト)です。

サントリーホワイト/photo by KASEI wikipediaより引用

宣伝にもこだわりました。

「醒めよ人! すでに舶来盲信の時代は去れり 酔わずや人 我に國産至高の美酒 サントリーウヰスキーはあり!」

これからは国産ウイスキーの時代だ、そう高らかにうたう広告が、全国紙を飾るのです。

価格は4円50銭。

当時の輸入ウイスキーでも4円台からありましたから、かなり強気な価格でした。

しかし……。

「なんやこれ、煙臭いわあ」

「焦げとるんかいな、これ」

「薬臭くて飲めたもんじゃねえなあ」

散々な評判でして。

壽屋(ことぶきや)は、返品の山を抱えることになってしまうのです。

このあたりは、ウイスキーの構造的欠点です。

ウイスキーのピート臭は、イングランド人でも当初は敬遠したほど。

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熟成期間も不足していました。

蒸留所ができてからわずか5年ですから、熟成期間はもっと短いでしょう。

これではまろやかさよりも、荒々しい風味が前面に出てしまっても、仕方ありません。

白札の失敗を受けて、1930年(昭和5年)には「赤札」(現在サントリーレッド)が発売されたものの、こちらも売れません。

サントリーのウイスキーがヒットしたのは、1937年(昭和12年)発売の「サントリーウヰスキー12年」(現サントリー角瓶)がはじめてのことです。

日本人の味覚にあう商品への試行錯誤ももちろんありましたし、原酒の熟成がやっと十分になったということも、大きな要素でした。

このあと、戦争を経て1950年(昭和25年)に発売された「サントリーウイスキー黒丸(現サントリーオールド)」も大好評。

サントリーウイスキーは、日本人にとって欠かせないものとなったのです。

ちなみに「白札」と「赤札」も、現在ではそれぞれ「ホワイト」と「レッド」という名前でサントリーの廉価版定番商品として定着しています。

 


竹鶴、余市で理想のウイスキー作りを行う

「白札」、「赤札」と失敗を重ねる中で、竹鶴は鳥居との違いを感じるようになりました。

日本人の味覚にあわせ、和食とともに楽しむことを前提とした鳥居。

ともかく本場の味を大事にし、妥協しない竹鶴。

どちらが正解でもありません。

ただ、姿勢が異なったのです。

一切の妥協をしないウイスキー作りを自力でしたい――。

竹鶴は、次第にそう考えるようになりました。

そして1934年(昭和9年)。

10年間にわたる「壽屋」での勤務を終えて、竹鶴は円満退職「大日本果汁株式会社」を設立します。

竹鶴がここだと目を付けたのは、北海道余市町でした。

ニッカウヰスキー余市蒸溜所/photo by 663highland wikipediaより引用

余市町は、明治維新のあと旧会津藩士の入植した町で、日本初のリンゴの栽培地です。

そのため、リンゴ加工品を作ることができました。

ニシン漁も下火となっており、漁師を人手として確保できます。

余市川の流れは、よい水でした。

気候もスコットランドによく似ており、なによりウイスキー作りに欠かせないピート(泥炭)も取れるのです。

本場スコットランドのウイスキーに近づけたい竹鶴にとって、ここはまさしく理想の土地でした。

余市蒸溜所の旧竹鶴邸/photo by 663highland wikipediaより引用

1936年(昭和11年)、ウイスキー生産開始。

原酒を熟成する間は、リンゴ加工品を生産販売しておりました。1938年(昭和13年)からはアップルワインも販売しています。

そして初のウイスキーが発売されのは、1940年(昭和17年)のことでした。

しかし、当時は戦争の最中です。ウイスキーが売れるはずもありません。

敵国イギリスの出身だとして、愛妻リタが迫害を受ける中、竹鶴はジッと時を待つ他ありませんでした。

戦火の中で、ウイスキーは静かに熟成の時を待っていたのです。

 


戦後のウイスキーブーム

長い戦争がやっと終わった1945年(昭和20年)。

闇市では安酒が出回り、進駐軍がバーやキャバレーで痛飲している頃、被災を免れた原酒や穀物を用いて、ウイスキー作りは続けられました。

壽屋(ことぶきや)では1946年(昭和21年)に「トリスウイスキー」の販売を開始します。

安価なウイスキーは、庶民に手が届くとして人気を集めました。

昭和30年代には、東京や大阪といった大都市圏には、トリスが飲める「トリスバー」も大流行しております。

ここではトリスのソーダ割りである「ハイボール」を提供しました。

庶民が手を出せて、気軽に飲めて、大人気。

戦後になってようやく、当初の理想である日本人にとってのウイスキー環境が整ったのです。

ウイスキーとは、高度経済成長とぴったりはまった、そんな酒でした。

冷蔵庫の普及で、オン・ザ・ロックも気軽に楽しめるように。

「壽屋」は「サントリー」に、「大日本果汁」は「ニッカ(日果)ウヰスキー」に変更され、ウイスキーは国民的な酒となります。

1980年(昭和55年)、サントリーオールドは1200万ケースの出荷を達成。

1億4400万本という出荷本数は、世界一の売り上げ記録となりました。

ただし、ウイスキーというのは難しく、原酒生産量の調整が難しいのです。

1980年代をピークに、日本のウイスキーは低迷期を迎えます。

実は、今このことがマイナスの影響として響いているのです。

2010年代後半から現在にかけてのハイボールブームや、2014年放映の朝ドラ『マッサン』の影響でウイスキー消費量は再び増えました。

ところが、です。

1980年代以降の生産量低下によって、原酒不足という事態を招いているのです

今や、世界的にも名声を経て、国内外から熱い視線を集めるジャパニーズウイスキー。

意外や意外、現在、ピンチだというのです。

飲む人が増えたから生産を増やす、しかし30年後も人気があるかわからない。

ウイスキーはなかなか大変なものなのです。

ボトルに詰まった苦労と歴史。

そのことに思いを馳せつつ、今夜、一杯、楽しんでみませんか。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
土屋守/輿水精一/茂木健一郎『ジャパニーズウイスキー (とんぼの本)』(→amazon
土屋守『ブレンデッドウィスキー大全』(→amazon

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