那波列翁伝初編

ご存知ナポレオンを幕末の志士たちも崇拝した?/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末ナポレオンブーム!『那波列翁伝初編』を耽読した西郷や松陰

文化5年8月(1808年10月)、長崎の港に異国船が突如出現しました。

「オランダ船か」

そう思っていたオランダ商館の人々は、その正体に驚愕。

HMSフェートン号でした。

「げえっ、イギリス海軍!」

この事件から遡ること3年前のことです。

トラファルガーの戦いにおいて、ネルソン提督率いるイギリス海軍は、仏西連合艦隊に完勝。

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海の覇者として君臨していました。

そんな地球の裏側の事情が、日本にまで及んだ。

それがフェートン号事件です。

フェートン号/wikipediaより引用

1806年、オランダは皇帝ナポレオンの弟・ルイを国王とするホラント王国に移行しました。

つまり、フランスの宿敵であるイギリスからすれば、敵。

日本にいるオランダ商館は、そのへんの事情を幕府には黙っておりました。バレてしまったら、いろいろと面倒ですし……。

そんな状況でイギリスが「オランダは実はフランスの傀儡国家だ。その商館が日本にあるなら攻撃するしかないやろ~」と出てきたらもうこれはいろいろ大ピンチというわけです。

この事件、結果的に日本側に大した損害はありませんでしたが、幕府が危機感を募らせるには十分な出来事でした。

最近のフランスひいてはヨーロッパ事情を知った幕府は、これはまずいと痛感したのです。

フランス革命というのは、幕府にすれば【大規模な農民一揆で、将軍と御台所が斬首された】ような話。絶対に表沙汰にしたくない事実なのです。

それだけでなく遠いヨーロッパには、何やら凄い男がいるらしい。

ナポレオン・ボナパルト――。

日本の知識人たちは、そのことに気づいたのでした。

 


頼山陽、ナポレオンを讃える

どうやら、ヨーロッパ事情に大きな動きがあるらしい――。

そんな情報が入ってきて、蘭学を学ぶ知識人を中心に、波紋が広がりつつありました。

蘭学のエキスパートが、日本でナポレオンの知名度を上げたのではありません。

意外にも、漢詩で知られる頼山陽が、ナポレオンの知名度アップに貢献しているのです。

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文政元年(1818年)。
頼山陽は、長崎に遊学しました。長崎には知識を持つ「清人」も出入りしていましたので、実は理にかなったことです。

そこで頼山陽は、ナポレオンのモスクワ遠征に従軍したオランダ人軍医から、ナポレオンの事績について学んだのです。

頼山陽は感動しました。

「そんな凄い英雄がいるというのか。そこまで偉大でありながら、大敗を喫し、没落してしまうとは。諸行無常ですなあ」

頼山陽の頭の中には、中国の英雄である項羽や、日本の戦国大名である武田信玄あたりと、ナポレオンがオーバーラップしていたかもしれません。

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そして頼山陽は「仏郎王歌(フランス王の歌)」という漢詩を詠みました。

長いので、要約しますね。

仏郎王歌(フランス王の歌)

昔、大西洋にフランス王がいた。

太白金星の転生であり、目は碧の光を放っていた。フランス王はともかく強く、ヨーロッパを征圧した。

ただロシアだけが逆らい、フランス王に刺客を放った。刺客と知りながら、フランス王はロシアと行動をともにして、こう言った。

「さあ、私を殺せるものならやってみよ」

フランス王はロシアに連戦連勝した。ロシアは釜の前で泣く魚のようだ。

しかし、大雪がフランス軍を阻み、飢えに斃れていった。

「皆を助けるためならば、私は降伏する」

フランス王は降伏したが、敵はあえて殺さず、アメリカに放した。人々は喜んだ。

今、西洋世界には戦争の気配が満ちている。一時的に落ち着いているが、皆もそのことを知っていて欲しいと思い、この詩を記した。

伝聞ということもあり、いろいろと正しい知識かどうか。

それはさておき、この頼山陽の歌は、幕末から明治にかけて、多くの人々の心を掴みました。

悲運の英雄・ナポレオンの事績を、人々は追い求めるようになったのです。

 


ナポレオン伝出版ブーム

幕府としては絶対に知られたくない西洋事情。

しかし、あふれる好奇心をおさえきれない知識人は、ナポレオン伝説を刊行し始めます。

1769年 ナポレオン・ボナパルト誕生

1789年 フランス革命

1804年 ナポレオン皇帝即位

1815年 ワーテルローの戦い

1818年(文政元年) 頼山陽「仏郎王歌(フランス王の歌)」

1821年 ナポレオン、流刑地セントヘレナ島で死去

1826年(文政9年) 幕府天文方書物奉行・高橋景保『丙戌異聞(へいじゅついぶん)』オランダの軍人・スチュルレルからの伝聞をまとめたナポレオン伝。同『別埒阿利安説戦記(ペレアリアンせんき)』オランダの目線から見た「ワーテルローの戦い」から「ウィーン会議」まで。ナポレオンを「凶賊」とし、打倒したウエリントンとブリッヒャーを讃える

シーボルト事件
シーボルト事件に巻き込まれた高橋景保 その最期はあまりに不憫な獄中死だった

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1839年(天保10年) 蘭学者・小関三英(蛮社の獄で自害)『那波列翁伝』、オランダ人リンデンの『ナポレオン伝』の翻訳

1839年(天保10年) 仙台漢学者・大槻磐渓「仏朗王詞(ふつろうおうし)」、ナポレオンの経歴をまとめた漢詩

佐久間象山「題那波列翁像」(ナポレオン像に題す)、ナポレオンの事績と己の野心をオーバーラップさせた漢詩

1867年(慶応3年)福地源一郎「那破倫兵法(ナポレオンへいほう)」、ナポレオンの兵法を分析

ナポレオンがなぜこうも心の琴線にふれたのか?

ナポレオン・ボナパルト/wikipediaより引用

これには様々な理由があるでしょう。

低い身分から皇帝にまで上り詰めた、そしてヨーロッパを征圧した……そんな事績は、人々の心をワクワクさせる英雄として、十分でした。

それだけではなく、もっと別のワクワク感が、どうやらあったようなのです。

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