文化5年8月(1808年10月)、長崎の港に異国船が突如出現しました。
「オランダ船か」
そう思っていたオランダ商館の人々は、その正体に驚愕。
HMSフェートン号でした。
「げえっ、イギリス海軍!」
この事件から遡ること3年前のことです。
トラファルガーの戦いにおいて、ネルソン提督率いるイギリス海軍は、仏西連合艦隊に完勝。
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海の覇者として君臨していました。
そんな地球の裏側の事情が、日本にまで及んだ。
それがフェートン号事件です。
1806年、オランダは皇帝ナポレオンの弟・ルイを国王とするホラント王国に移行しました。
つまり、フランスの宿敵であるイギリスからすれば、敵。
日本にいるオランダ商館は、そのへんの事情を幕府には黙っておりました。バレてしまったら、いろいろと面倒ですし……。
そんな状況でイギリスが「オランダは実はフランスの傀儡国家だ。その商館が日本にあるなら攻撃するしかないやろ~」と出てきたらもうこれはいろいろ大ピンチというわけです。
この事件、結果的に日本側に大した損害はありませんでしたが、幕府が危機感を募らせるには十分な出来事でした。
最近のフランスひいてはヨーロッパ事情を知った幕府は、これはまずいと痛感したのです。
フランス革命というのは、幕府にすれば【大規模な農民一揆で、将軍と御台所が斬首された】ような話。絶対に表沙汰にしたくない事実なのです。
それだけでなく遠いヨーロッパには、何やら凄い男がいるらしい。
ナポレオン・ボナパルト――。
日本の知識人たちは、そのことに気づいたのでした。
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頼山陽、ナポレオンを讃える
どうやら、ヨーロッパ事情に大きな動きがあるらしい――。
そんな情報が入ってきて、蘭学を学ぶ知識人を中心に、波紋が広がりつつありました。
蘭学のエキスパートが、日本でナポレオンの知名度を上げたのではありません。
意外にも、漢詩で知られる頼山陽が、ナポレオンの知名度アップに貢献しているのです。
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文政元年(1818年)。
頼山陽は、長崎に遊学しました。長崎には知識を持つ「清人」も出入りしていましたので、実は理にかなったことです。
そこで頼山陽は、ナポレオンのモスクワ遠征に従軍したオランダ人軍医から、ナポレオンの事績について学んだのです。
頼山陽は感動しました。
「そんな凄い英雄がいるというのか。そこまで偉大でありながら、大敗を喫し、没落してしまうとは。諸行無常ですなあ」
頼山陽の頭の中には、中国の英雄である項羽や、日本の戦国大名である武田信玄あたりと、ナポレオンがオーバーラップしていたかもしれません。
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そして頼山陽は「仏郎王歌(フランス王の歌)」という漢詩を詠みました。
長いので、要約しますね。
仏郎王歌(フランス王の歌)
昔、大西洋にフランス王がいた。
太白金星の転生であり、目は碧の光を放っていた。フランス王はともかく強く、ヨーロッパを征圧した。
ただロシアだけが逆らい、フランス王に刺客を放った。刺客と知りながら、フランス王はロシアと行動をともにして、こう言った。
「さあ、私を殺せるものならやってみよ」
フランス王はロシアに連戦連勝した。ロシアは釜の前で泣く魚のようだ。
しかし、大雪がフランス軍を阻み、飢えに斃れていった。
「皆を助けるためならば、私は降伏する」
フランス王は降伏したが、敵はあえて殺さず、アメリカに放した。人々は喜んだ。
今、西洋世界には戦争の気配が満ちている。一時的に落ち着いているが、皆もそのことを知っていて欲しいと思い、この詩を記した。
伝聞ということもあり、いろいろと正しい知識かどうか。
それはさておき、この頼山陽の歌は、幕末から明治にかけて、多くの人々の心を掴みました。
悲運の英雄・ナポレオンの事績を、人々は追い求めるようになったのです。
ナポレオン伝出版ブーム
幕府としては絶対に知られたくない西洋事情。
しかし、あふれる好奇心をおさえきれない知識人は、ナポレオン伝説を刊行し始めます。
1769年 ナポレオン・ボナパルト誕生
1789年 フランス革命
1804年 ナポレオン皇帝即位
1815年 ワーテルローの戦い
1818年(文政元年) 頼山陽「仏郎王歌(フランス王の歌)」
1821年 ナポレオン、流刑地セントヘレナ島で死去
1826年(文政9年) 幕府天文方書物奉行・高橋景保『丙戌異聞(へいじゅついぶん)』オランダの軍人・スチュルレルからの伝聞をまとめたナポレオン伝。同『別埒阿利安説戦記(ペレアリアンせんき)』オランダの目線から見た「ワーテルローの戦い」から「ウィーン会議」まで。ナポレオンを「凶賊」とし、打倒したウエリントンとブリッヒャーを讃える
シーボルト事件に巻き込まれた高橋景保 その最期はあまりに不憫な獄中死だった
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1839年(天保10年) 蘭学者・小関三英(蛮社の獄で自害)『那波列翁伝』、オランダ人リンデンの『ナポレオン伝』の翻訳
1839年(天保10年) 仙台漢学者・大槻磐渓「仏朗王詞(ふつろうおうし)」、ナポレオンの経歴をまとめた漢詩
佐久間象山「題那波列翁像」(ナポレオン像に題す)、ナポレオンの事績と己の野心をオーバーラップさせた漢詩
1867年(慶応3年)福地源一郎「那破倫兵法(ナポレオンへいほう)」、ナポレオンの兵法を分析
ナポレオンがなぜこうも心の琴線にふれたのか?
これには様々な理由があるでしょう。
低い身分から皇帝にまで上り詰めた、そしてヨーロッパを征圧した……そんな事績は、人々の心をワクワクさせる英雄として、十分でした。
それだけではなく、もっと別のワクワク感が、どうやらあったようなのです。
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