「天は二物を与えず」ということわざ、歴史を見る限りウソですよね。
例えばレオナルド・ダ・ヴィンチなんて、美術・建築・工学・解剖学など、挙げればきりがないほど多才。
実は日本にも、そんな方がおりまして……天保三年(1832年)9月23日に亡くなられた頼山陽(らいさんよう)もまさにそうではないでしょうか。
受験勉強では『日本外史』の著者として知られますが、実のところ、歴史家・思想家・詩人という二足ならぬ三足のわらじを履いていた人でもあります。

頼山陽/wikipediaより引用
その生涯を振り返ってみましょう。
江戸で勉強した後、脱藩計画!
頼山陽は、レオナルド・ダ・ヴィンチのような天才型ではなく、コツコツ努力を積み上げて活躍の場を増やしたタイプ。
お父さんが私塾の主、お母さんが女流作家だったので、血のなせる業というところでしょうか。
ただ、学者さんにしてはなかなかダイナミックな考えの人だったようです。
最初はお父さんに、次はその学友で江戸にいた尾藤二洲という人に勉強を教わり、帰ってきた後いきなり広島藩を脱藩しようと計画します。
脱藩とは、現代で言えば転居・転入届を出さずに引っ越すようなもの。
江戸時代初期は軍事機密漏洩などのおそれがあったため、重罪扱いになっていました。
しかし江戸時代も後期になると「藩の重役はダメだけど、その他の人は届け出てくれればいいよ」という風潮になっていたため、きちんと手続きをすれば穏便に済むものだったのです。
ちなみに無断で脱藩すると本人は死刑の上、家が潰されてしまいます。怖っ!
座敷牢に5年間が最適空間だった
若い頃の山陽はポエムが上手な男の子でした。
情緒が若干不安定だっただけでなく、江戸でご遊学をしているときに思い立ったのか、広島では「おら、こんな田舎いやだ!」と脱藩してしまいます。地元の方すみません。
その後は京都まで逃げるのですが、追っ手に捕まって連れ戻されてしまいました。
しかし、連れ戻される途中に兵庫県でまた逃走!
懲りないやっちゃな……と思ったら、やっぱり捕まってしまいました。
さほど重職についているわけではなかったので処刑まではいかずとも、廃嫡の上、奥さんとは別れさせられ、自宅の座敷牢に幽閉されてしまいうので、かなりキツかったでしょう。
と、思いきや、そんなものは屁の河童。むしろ、この境遇を喜んでいたように思えます。
家で集中して本を書けたので、快適だったようです。
『日本外史』の下書きができたのもこの頃で、山陽20代半ばあたりのこと。
このまま大人しく著作に勤しんだ……めでたしめでたしとなるとここでこの記事が終わってしまうのですが、山陽は再び脱藩を企みます。
約5年の幽閉がとかれると、備後(広島県)の塾で儒学などを教える先生になったのです。
ただやはり飽きたらず、再度京都へ出奔し、今度はみずから塾を開きます。
周りの人々が弁解(あきれて?)してくれたおかげでお偉いさんも「アイツはもう好きにさせとけ」と思ったのか、この後山陽に追っ手がかかることはなかったようです。
石頭にも届いた辛口日本史
晴れて自由の身となった山陽はいろいろな文化人と交流を結びます。
儒学者、画家、僧侶、陶芸家、蘭学(ヨーロッパの学問)を身に着けた医者などなど、互いに意見やアイディアを交換して作品づくいに勤しんだようです。
初めて本を出したのは、山陽35歳のとき。
お父さんの書き残した原稿をまとめて出版したのが最初です。
その後、45歳で自分の著作『日本外史』(→amazon)を完成させました。
中国の歴史家・司馬遷の「史記」のスタイルを真似た漢文で、少しコンパクトな構成になっています。
ソース元が軍記物語の部分もあるので、名前に反して全てが史実というわけではないものの、文章が易しく緩急のあるものだったので広い読者層を得ることができました。
あの【寛政の改革】を行った石頭の松平定信にも献上されています。
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ということは、定信からOKをもらったって事にもなり、一気に注目されます。
なにしろ、中身は結構辛口なのに、お上が認めたのですから。
松平定信と山陽とは以前から交流があったそうなので、まさか貰った本を全く読まずに放置したということもないでしょうけど。
※ちなみに、そんな逸話もあってか、山陽の死後に出版されると、江戸っ子たちの大ベストセラーとなります
亡くなったとき机の上には完成原稿
若い頃の座敷牢生活が悪かったのか。
京都に出てからの諸国漫遊で身体にがたがきたのか。
単に根を詰めすぎていたのか。
山陽は50歳を超した頃から体調不良に見舞われることが多くなりました。
そして天保三年9月23日に亡くなるわけですが、亡くなったときには眼鏡をかけ、筆を置いた姿だったといわれています。
机の上には、書き上げたばかりの原稿が……。
仕事バカもここまでくるか!
という感もありますが、山陽は「間に合ったあああああ!」と満足していたかもしれません。
心残りがないという点で見れば、なかなか良い死に様だったのではないでしょうか。
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【参考】
国史大辞典
頼山陽/頼成一/頼惟勤『日本外史 上 (岩波文庫 黄 231-1)』(→amazon)
頼山陽/長尾剛『『日本外史』―幕末のベストセラーを「超」現代語訳で読む』(→amazon)





