嘉吉三年(1443年)9月23日、禁闕の変が起きました。
「禁闕」とは「きんけつ」と読み、内裏のことを指します。
内容は、平たくいうと南北朝時代に起きた「三種の神器強奪事件」です。
【嘉吉の変】と呼ばれることもあるのですが、それですと室町幕府の六代将軍・足利義教の暗殺事件を意味することが多いので、違う呼び名が捻り出されました。
まぁ、禁闕の変も、実は義教の暗殺と同等かそれ以上に大事件なんですが、当時の政局などにほとんど影響がないせいか、歴史の教科書ではあまり重視されていません。
一体どんな事件だったのか?
なぜ三種の神器が強奪されたのか?
振り返ってみましょう。
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南北朝両系統で交互に天皇を輩出していく予定が
南北朝両系統で交互に天皇を輩出していく予定が
鎌倉幕府打倒と【建武の新政】を経て、なんとか始まった室町幕府。
当時の南北朝の関係は、後醍醐天皇が亡くなるまでゴネ続けたり、その後も後醍醐天皇の意思を受け継ごうとした人々が軍を起こしたりといった状況で、まさに泥沼。
室町幕府初代将軍である足利尊氏、そして二代将軍の足利義詮(よしあきら)もこの点は心残りだったと思われます。
二人とも解決の前に亡くなってしまっていますから。
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そして三代将軍である足利義満の時代に、南北朝の和解が成立しました。
しかし、義満と南朝方で勝手に話を進めてしまったため、北朝方は「そんな話聞いてないんですけど!」と反発。
これは義満が
「ワシが北朝の代表です」
と自認していたからなのでしょうけれども、北朝の皇族からすれば納得できないのも当たり前の話ですよね。
その話し合いの中では
「これからは北朝と南朝で交互に天皇を輩出して、公平にやっていきましょう」
ということになっていたところ、北朝方がこれを無視して親子での皇位継承をし、さらに養子を迎えてまでそれを続けていこうとします。
これに対し、南朝側の中でも
「あんな和約は無効だ! こっち(南朝)のほうが正当だし、室町幕府なんて認めません!」(超訳)
と言い張る人たちがいました。
しかも八代将軍である足利義政に代替わりした後まで続きます。
【禁闕の変】は、その間に起きた事件でした。
時期としては六代・足利義教が上記の通り嘉吉の乱で暗殺され、七代・足利義勝はこの嘉吉三年7月に亡くなったばかり。
足利義政が八代将軍に決まったものの、まだ正式に就任はしていません。
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現代風に表現するならば「政治の空白」とでもいうべき期間でした。
いかにも、何かヤバイことが起きそうな気がしますね。
首謀者は南朝方を自称する人々
前述の通り、事件は嘉吉三年(1443年)9月23日の深夜に勃発しました。
首謀者は、旧南朝側の皇族の血を引くとされる通蔵主(つうぞうす)&金蔵主(こんぞうす)兄弟。
この二人、首謀者なことは間違いないのですが、皇族の誰の子孫なのか? 実はハッキリしていません。
僭称(せんしょう・勝手に称号を自称する)の可能性もあるでしょう。
しかし後鳥羽天皇の末裔を自称する源尊秀(鳥羽尊秀)、日野家嫡流の日野有光とその息子である資親も噛んでいたようですので、人を集める力とフットワークだけは確実にありました。
彼らは以下のように凄まじい犯罪行為に及びます。
・数百人を引き連れて天皇がいた御所(土御門殿)へ突入
・放火した上で当時の天皇である後花園天皇を追い出す
・神器のうち天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・草薙剣)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を奪う
現代であれば、不法侵入・放火・公務執行妨害・強盗という罪でしょうかね。放火が入った時点で極刑がほぼ確定しそうです。
一行の足の速さは凄まじく、そのまま比叡山延暦寺に立てこもりました。
当時の大寺院は、大名かそれ以上に武力や政治力を有していて、非常に厄介な存在。
そんなところに逃げ込まれて取り返すことはできたのか?
一体どうなってしまうのか?
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