天正五年(1577年)9月23日、上杉謙信と柴田勝家の間で【手取川の戦い】が勃発しました。
石川県にある同名の川付近が戦場であることからそう呼ばれています。
※松任城のすぐ南にある手取川が主戦場となる
この戦い、「織田家が上杉謙信に木っ端微塵にされた戦」(※多少の強調があります)として有名ですが、実は前後の経緯を含めた詳しい事情は、当時の史料にあまり記載されていません。
戦国ビッグネームの間で起きた戦としては不可解なほどです。
一応、定説とされるものは伝わっているので、そこをざっくり見るところから進めていきましょう。
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長篠勝利のノリノリ状態で迎えた手取川の戦い
武田信玄や石山本願寺らを敵に回し、四方八方が敵だらけという【信長包囲網】を敷かれて孤立しかけていました。
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しかし、信玄が亡くなり、包囲網がユルくなった矢先に朝倉義景や浅井長政を滅ぼすと、その後【長篠の戦い(1575年)】で武田勝頼に快勝。
これまで溜まっていた鬱憤を晴らすかのように全国各地へ“方面軍”を展開しはじめます。
例えば、中国方面には羽柴秀吉。
畿内や丹波方面には明智光秀。
北陸方面、つまり上杉家対策もその一つで、ここは家中きっての猛将・柴田勝家が担当していました。
前哨戦として、大規模な一向一揆を起こして以来100年ほど自治国を作り上げていた加賀(現・石川県)を攻略し、勝家にここを与えて足がかりにします。
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近畿から北上する勝家と新潟から南下の謙信
一方の謙信は、表向き、
「ウチは自国防衛とその周りの大名の救援はするけど、こっちから侵攻はしませーん」
というスタンス。
積極的に織田家とぶつかろうとはしていませんでした。
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しかし、信長が本願寺と戦をおっぱじめた頃から反織田に態度を変えます。これに北陸の諸将が同調し、加賀以北は反信長同盟的なものができたのです。
もう一つ謙信にとって重要なのは、上洛するルートを確保することでした。
謙信の居城・春日山から京都に出るためには、北陸諸国を手中に収めていなければ安心できません。
そこで能登(現・石川県)にある七尾城という城を攻めました。
この時点で「他国へ侵攻してんじゃねーか……」とツッコミたくなってきますが、そこは毘沙門天様だから……。
七尾城は北陸有数の堅城だったため、一度は上杉軍を退けることに成功します。
しかし、自分の兵だけでは戦闘と領民保護を両立できないと考えた城主・長続連(ちょうつぐつら)は、「NOBUさんに相談だ!」(超訳)ということでかねてよりツテを作っていた織田家に救援を要請しました。
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そして織田軍の先鋒としてやってきた柴田勝家が、上杉謙信とぶつかることになったのです。
信長は後日来ることになっていました。
手取川を越えた直後に撤退を決意
しかし、ここで二つの大問題が起きます。
一つは、勝家が着く前に七尾城が落ちてしまったこと。
もう一つは、勝家と共に謙信へ当たるはずだった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が勝手に陣を離れてしまったことです。
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前者は内部分裂によるものだったので、勝家や織田家のせいではありませんが、後者の秀吉撤退は大問題。
作戦に関して意見の相違があったからとも言われますが、現代に置き換えれば「『部長と一緒に行け』と社長に言われたのに、部長とケンカしたから出張行きません(キリッ」と言って本当に実行したようなものです。
なんだか小物感が漂いますがホントにこうだから仕方がない。
残された勝家は自分だけでも謙信を阻もうとします。
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しかし、七尾城の陥落を知って撤退を決意。
その方針を決めた場所が最悪でした。
手取川を越えた直後だったのです。
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