柴田勝家と上杉謙信の肖像画

鬼柴田と恐れられた柴田勝家(左)も軍神・上杉謙信には赤子のごとく?/wikipediaより引用

合戦・軍事

織田軍と上杉軍が正面から激突!手取川の戦いで謙信はどこまで勝家に大勝した?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
手取川の戦い
をクリックお願いします。

 


皆で手を繋いで渡ろう……なんて余裕はなく

手取川というのは、その昔、木曽義仲のあるエピソードから名付けられた川です。

「渡河中は危険だから、皆で手を繋いで流されないようにせよ」

ってな感じで兵を無事に渡らせたという心温まるエピソードがあったのです。

源義仲・木曽義仲・木曾義仲
なぜ木曽義仲は平家討伐に活躍したのに失脚へ追い込まれたのか?頼朝との違いは?

続きを見る

しかし、このときの勝家以下織田軍にそんな余裕はありません。

折りしも雨で大絶賛増水中の川は、容赦なく勝家軍の岐路を阻みます。

手取川至近の松任城(白山市)に入っていた謙信がこの好機を見逃すはずはありませんでした。

手取川

背後を突かれる形となった勝家軍は見事に壊走。

反撃しようにも、鉄砲用の火薬は濡れてしまって使い物にならず、騎馬隊も混乱のドツボにハマってしまってどうにもなりません。

幸い勝家は無事でしたが、戦死者の他に溺死者も多発し、信長は一時北陸方面の作戦を中止せざるをえなくなった……というのが、一般的な手取川の戦いの話です。

 


頭脳キレキレの秀吉がなぜ勝手に撤退?

不可解なのは、やはり秀吉の撤退について。

一兵卒から成り上がって一軍を任されるようになったばかりの秀吉が、ただ単に作戦が気に入らないからといって持ち場を離れるでしょうか?

「人たらし」の秀吉が、前後の事情や織田家での立ち位置を全く考えずに離脱するというのは違和感しかありません。

跡継ぎ問題や朝鮮の役の頃にはかなり耄碌した様子が窺えますが、本来はとてつもなく頭のいい人でしょう。

ここで気になるのは、上述の通りこの戦いが【本能寺の変】から5年前にあたること。

織田信長(左)と明智光秀の肖像画
本能寺の変|なぜ光秀は信長を裏切ったのか 諸説検証で浮かぶ有力説とは

続きを見る

もし、この時点で秀吉が信長に対する謀反を企んでいて、いかにも障害になりそうな勝家を謙信に始末してもらおうと考えていたとしたら……真っ黒な事実が浮かび上がってきますねえ。

ロクな記録が残っていないのも、処分させたと考えれば一応つじつまは合いますし……って陰謀説はやっぱり無理があるでしょう。

この後、秀吉は信長さんにこっぴどく叱られるんですが、中国地方の上月城を攻略したりで大活躍をして、追放どころか褒美を貰っています。

もともと信長さんはデキる部下の勝手には、割と優しいところもありますし。

謎多き【手取川の戦い】――早くその真相が明らかにされて欲しいものです。

なお、柴田勝家上杉謙信の生涯については以下のマトメ記事を併せてご覧いただければ幸いです。


あわせて読みたい関連記事

上杉謙信
上杉謙信の生涯|軍神や越後の龍と称される49年の事績を史実で振り返る

続きを見る

柴田勝家
織田家を支えた猛将・柴田勝家の生涯~なぜ「鬼柴田」は秀吉に敗れたのか

続きを見る

織田信長
織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

続きを見る

コメントはFacebookへ

朝倉義景
なぜ朝倉義景は二度も信長を包囲しながら逆に滅ぼされたのか?41年の生涯まとめ

続きを見る

浅井長政
信長を裏切り滅ぼされた浅井長政29年の生涯~その血脈は三姉妹から皇室へ続いた

続きを見る

長連龍
信長に仕えて復讐の機会を待ち続けた長連龍「一族殺戮の恨み」を倍返しだ!

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
手取川の戦い/Wikipedia

TOPページへ


 

リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-合戦・軍事
-