トリノ王宮図書館が所蔵するレオナルドの自画像/wikipediaより引用

イタリア

天才レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯!意外と知らない素顔を絵画と共に振り返る

1452年(日本では室町時代・享徳元年)4月15日は、「万能人」レオナルド・ダ・ヴィンチが誕生した日です。

万能すぎて何から書けばいいのか?
あまりに多才すぎて困るお人です。

が、意外と知られていないのがその生涯。

なぜ、ダ・ヴィンチという名前なのか?
どんな人物だったのか?

画家としての足跡を中心に、その生涯を辿っていきましょう。

 


ヴィンチ村に生まれたからダ・ヴィンチ

ダ・ヴィンチは、イタリア・トスカーナの【ヴィンチ村】に生まれました。

フィレンツェの西にある小さな村です。
だから「ダ・ヴィンチ」(英語だと「オブ・ヴィンチ」=「ヴィンチ村の」)なんですね。

つまり、元々は名字がないようなごくごく普通の人だったということになります。
ダ・ヴィンチの両親も芸術家だったわけではありませんし、どこに天才が生まれるかわからないものですね。

そんなわけで幼少期のことはあまりわかっていませんが、ラテン語・幾何学・数学を習っていたらしいということは間違いないといわれています。

ダ・ヴィンチの経歴がはっきりしてくるのは、14歳のときアンドレア・デル・ヴェロッキオという芸術家の工房に入ってからのこと。

アンドレアも絵画や彫刻など、複数の分野で活躍した人でしたので、このお師匠様の元に行けたことが、彼の才能を開花させる土壌になったのかもしれません。

そこで様々な経験を積むと、さっそく「万能人」としての才能を現し始めます。

 


医学的なスケッチが多いのは?

絵画や彫刻だけでなく、設計や機械工学など。
芸術から少し離れた分野でも、この時期に活動し始めたと云われています。

これは私見ですが、おそらくは絵画や彫刻の完成度を上げるために、物や人体の構造に着目し、やがて設計・機械の分野に興味を広げていったのではないでしょうか。

著名なこの一枚は『ウィトルウィウス的人体図』と言います/wikipediaより引用

ダ・ヴィンチは医学的なスケッチを多く残していることでも有名です。
それも絵画の延長とみれば、何となく興味を持つのもわかる気がします。

もしも、人体の中身や病気の構造などへの興味が絵画への情熱を上回っていたら、そのまま石になっていたでしょうし。

 


同性愛で逮捕されていた?

20歳になる頃には、ギルドから親方として認められている程です。
脳みその出来自体はもちろん、よほど学習や技術習得の効率が良かったのでしょうね。

どうせならその方法も書き残して欲しかったものですが、ガチで頭のいい人のやってることって常人には理解できないことが多いですから、結果としては同じでしょうかね(´・ω・`)

しかし何事も、全てがうまく行かないのが人生です。

24歳の頃、ダ・ヴィンチを含めた4人の男性が同性愛でしょっぴかれたという記録があります。

カトリックだと同性愛は罪なので、残念ながら、仕方がないことでもあります。
ダ・ヴィンチには生涯を通じて女性との交友関係が非常に少ないので、存命中からいろいろ言われていたのでしょう。

この時点から約2年ほど記録が消えていることからして、当時の世論はかなり厳しく責めたのでしょう……。

 

「東方の三博士」の絵から個人で仕事依頼

工房のメンバーとしてではなく、ダ・ヴィンチ一個人として仕事を請け負うようになったのは、この事件(不起訴)からしばらく経った後でした。
とある修道院から受けた、東方の三博士の絵です。

「東方の三博士」とは、イエス・キリストが生まれたとき、はるばる東の国からお祝いにやって来たと言われている三人の賢者のこと。宗教画のモチーフとしてよくあるものなので、画像を見ると「ああ、これか」とわかる方も多いかと思います。

『東方三博士の礼拝』/wikipediaより引用

ダ・ヴィンチはなぜかこの仕事をすっぽかしてミラノへ行ってしまったため、記念すべき初仕事は未完のままになってしまったとか……(´・ω・`)

この頃から、お偉いさんの間ではレオナルドの名が取り沙汰されるようになってきているので、政治的な理由も何かあったのかもしれません。

 


フランスから攻めこまれたときはヴェネツィアへ

30歳から47歳の間は、ミラノで活動していました。

最も有名な「最後の晩餐」や、「断崖の聖母」といった代表作は、この時期に描かれたものです。
他にもミラノ大聖堂や、ミラノの主だったフランチェスコ・スフォルツァの騎馬像なども手がけました。

騎馬像については、何故か実際の製作開始までにかなりの期間が空いたようですが……気が乗らなかったんですかね。

しかもこの像、フランスがミラノに攻めてきたときに大砲の材料として供出されてしまったそうで。あれれー? どっかで聞いた話ダナー?

ダ・ヴィンチ本人は親しい人々と一緒にヴェネツィアへ避難していたので、戦争に巻き込まれることなく済みました。
その後は故郷・フィレンツェに戻り、とある修道院から工房を提供されて「聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ」というデッサンを残したといわれています。

「聖アンナ」はイエス・キリストの母方のおばあちゃんで、「聖母子」は聖母マリアとイエス・キリスト、「聖ヨハネ」は、これまた母方の従兄弟であり、「洗礼者ヨハネ」とも呼ばれる人のことです。
ここでも徹底的にハブられるイエスの(義理の)父・ヨセフが哀れでなりません(`;ω;´)

 

軍事技術者として雇用され、街の設計にも携わる

ダ・ヴィンチは、ときの教皇・アレクサンデル6世の息子であるチェーザレ・ボルジアに雇われたこともあります。

付き添ってイタリア中を巡りましたが、妻帯しないはずのカトリック聖職者に子供がいることについては、深く考えてはいけません。

アレクサンデル6世の素行はアレなものでしたが、チェーザレは軍人として優秀な人物。
ダ・ヴィンチを雇ったのも、軍事技術者としての雇用だったようです。

といっても兵器開発ではなく、街の設計などに関わっていたと思われます。
ダ・ヴィンチは、ローマとヴェネツィアを結ぶ線のややヴェネツィアよりにある、イーモラという街の都市計画図を描いているのですが、これは当時の技術としては桁外れのものでした。

まるで真上から見たかのような、正確な鳥瞰図なのです。もちろん、当時こんな地図はほとんどありません。というか、地図そのものがめったに作られないものでしたから、チェーザレの感嘆は推して知るべし、です。

「モナ・リザ」を描いたのはこの間のことでした。

もはや言うまでもないですね。ルーブル美術館に所蔵されている『モナ・リザ』/wikipediaより引用

チェーザレからの依頼が終わった後、ダ・ヴィンチはフィレンツェに戻りました。
ヴェッキオ宮殿(現・フィレンツェ政庁舎)で「アンギアーリの戦い」という壁画を手がけたといわれています。

が、壁に油絵を描こうとしたところ、絵の具が流れ落ちてしまって、まともな作品に仕上げることが出来ませんでした。

なぜそんなことをしたのかというと、上記の「最後の晩餐」を描いたとき、新しい画法を試して失敗していたからです。

ちょっと話が長くなるのですが、覚えておくと絵画の話が出たときわかりやすくなるので書き添えておきますね。

 


最後の晩餐が最も損傷の激しい絵画に

「最後の晩餐」は、フレスコ画にダ・ヴィンチオリジナルの工夫を加えて描かれたものでした。

フレスコ画は「壁に漆喰を塗り、乾ききる前に顔料で描く」という方法です。
しかし、これではやり直すことが出来ません。
乾いた後は非常に保存性の高い絵になるのですが、漆喰が完全に乾くまでの8時間ほどで描き上げなければならないという時間制限があるのです。

「もっとゆっくり描きたい。重ね塗りしないといい絵にならないし」(超訳)

ということで、ダ・ヴィンチはフレスコ画そのままの方法で描く気になりません。
そこで、「乾いた漆喰の上に乳化剤の膜を作り、その上に描く」という方法を取りました。

しかし、この方法は壁画という絵画形態、そして湿度の高さと相性が最悪でした。
そのため「最後の晩餐」は「最も損傷の激しい絵画」という、不名誉な点でも有名になってしまったのです。

最後の晩餐。本当に見た瞬間素人にもわかる絵ばかりですよね/wikipediaより引用

ダ・ヴィンチの存命中、1510年頃でも相当ひどい状態になっていたといいますから、彼は「いつかもっといい技法を考えてみせる」と思っていたことでしょう。

「アンギアーリの戦い」を描いていたのは、1508年頃のことです。

つまり、ダ・ヴィンチにとって「アンギアーリの戦い」は、名誉挽回をかけた作品だったということになります。

結果として失敗してしまいましたが、中央部分だけは何とか残り、後々ベルギーの画家・ルーベンスが模写しました。
模写でもすごい迫力ですから、当初の姿はもっと素晴らしいものだったのでしょうね。

 

手稿やスケッチなどは各地に点在

その後は父の死に伴って遺産問題に悩まされたりしながら、ミラノに家を買っているので、そろそろ腰を落ち着けたいと考えていたのでしょう。

とはいえ、世情はそれを許しません。
フランス王フランソワ1世がミラノを占領し、代替わりした教皇・レオ10世との和平会談に何故か招かれたりと、相変わらず引っ張りだこ。

既に60歳になっていたので、身体には堪えたのではないかと思われますが……フランソワ1世が年金を出してくれたため、それなりにいい暮らしはできていたようです。

また、フランソワ1世が「モナ・リザ」を買ったため、その後はフランスの財産とされています。
正式に売買されているからこそ、イタリアから返却要求が出ないんですね。

1519年にダ・ヴィンチが亡くなった後、遺産については弟子や兄弟、使用人たちで分配されました。

スケッチや手稿の類についてはその対象ではなかったらしく、現在さまざまな場所に収められています。
もし見たいものが決まっている場合は、どこにあるかを調べてから行ったほうがいいでしょうね。

有名所だと、先に紹介した「ウィトルウィウス的人体図」はヴェネツィアに、オーニソプター(鳥のように両翼を動かす航空機のようなもの)のスケッチはフランス学士院に、子宮内の胎児を描いたスケッチはイギリスにあります。

オーニソプターの概念図はフランスに…/wikipediaより引用

いずれも常設されているものではないので、例えイタリア・フランス・イギリスの全てを巡る旅行計画を立てたとしても、特定の期間中に見るのは難しそうです。

そういう企画を立てる旅行会社があったら、かなりチャレンジャーですね。
2019年5月2日がちょうどレオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年になります。

長月 七紀・記

【参考】
レオナルド・ダ・ヴィンチ/wikipedia


 



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