暦応元年/延元3年(1338年)8月11日は、室町幕府の初代将軍となる足利尊氏が、将軍宣下を受けた日です。
いわゆる室町時代の始まりですが、その後、何年続いたのか?
というと最後の十五代将軍・足利義昭が退任するまで、約250年の間に、いわば三つの時代を内包しています。
それが以下の通り。
それぞれ一体どんな時代だったのか?
いわば室町時代マトメを一気に確認してみましょう!
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後継者争いから南北朝が始まった
皇室が北と南に分かれて戦った南北朝時代。
そもそもの原因は、鎌倉時代に長く実権を握っていた後嵯峨上皇が、後継者をハッキリ指名しないまま薨去したことにあります。
仕方がないので、その後は朝廷と鎌倉幕府の話し合いで皇位継承者を決めていました。
具体的には、後嵯峨上皇の皇子だった後深草天皇と亀山天皇に分かれ、その子孫たちを交代交代で即位させ、公正を図ったのです。
◆後深草天皇(兄)の【持明院統】
◆亀山天皇(弟)の【大覚寺統】
かなり乱暴に言えば静かな兄弟喧嘩ですね。
この辺はとてもややこしいので、もしも受験生の方がいらっしゃいましたら、「どの天皇がどちらの系統なのか」をシッカリ色分けしておいた方がテスト的にはOKかと存じます。
以下に表を記しておきましょう。
なお、天皇家が2つに分かれて次々に天皇となる体制を【両統迭立】と言いまして、スグにうまく立ち行かなくなります。
キッカケは大覚寺統の後醍醐天皇。

後醍醐天皇/wikipediaより引用
突然、「醍醐天皇の時代みたいに、天皇がちゃんと実権を持つ状態に戻したい! もう持明院統も幕府もイラネ!!」(超訳)と考え、アレコレやり始めたのでした。
「幕府もイラネ!!」という点に関しては、割とすんなりカタが付きました。
元寇以来、武士の間で北条氏に反感が強まっていたのが大きな理由です。
ぶっちゃけ、後醍醐天皇に人望や実力があったからではなく、鎌倉幕府が時勢の変化に対応しきれなかった&他の武士がブチ切れたからなんですね……。
幕府成立のポイントは中先代の乱
しかし後醍醐天皇はそこがわかっていなかったようです。
「これでワシが好きなように政治をできる^^」とゴキゲンになり、実情にそぐわない政策をいくつも始めてしまいます。
それが【建武の新政】。
おおざっぱにいうと、こんな感じです。
「全てを天皇に集権させようとして実務の大幅な停滞を招き、関係各所から大ブーイングを受けた」
当然、公家も武士も後醍醐天皇に代わる、きっちりと政権運営できる実力者を求めるようになります。
持明院統では
「後醍醐天皇マジありえないから、幕府を倒した武士を味方につけて締め出そう!」(超訳)
と考え、武士からの信望厚い足利尊氏とタッグを組みました。

足利尊氏/wikipediaより引用
一つのポイントとなるのが【中先代の乱(なかせんだいのらん)】です。
建武の新政に伴って、幕府が滅びた後の鎌倉には、朝廷の出向機関である「鎌倉将軍府」が作られていました。
しかし、当然ながら鎌倉には鎌倉幕府の残党がいるわけで。
彼らが自分たちの復権を狙って鎌倉将軍府を襲撃したのが【中先代の乱】です。
建武二年(1335年)の話なので、鎌倉幕府が滅びてからたった2年後のこと。
その頃、足利尊氏はこう考えていました。
「百年以上も政治から遠のいていた朝廷に、地方や武士社会を治めるのは難しい。鎌倉幕府に変わる新しい武士の政治機関を作ったほうが、結局はうまくいくんじゃないか?」
そこに中先代の乱が起きたので、尊氏はこれを鎮圧して実力を示し、ますます信望を得ていきます。
そして建武三年(1336年)、ついに後醍醐天皇を京都から追い出し、持明院統の光明天皇を即位させました。
さらにその二年後には、尊氏自らが征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府を開きます。
「三木一草」が後醍醐天皇を支えたが
後醍醐天皇もタダでは諦めません。
吉野に逃れ「自分こそ正当な天皇だ!」と言い張り続けます。諦め悪すぎというかなんというか……。
このときには、まだまだ後醍醐天皇に味方をする武士もおりました。
楠木正成をはじめとした「三木一草」と呼ばれる四人の武士がその代表例です。
【三木一草】
楠木正成(クスノキ)
結城親光(ユウキ)
名和長年(伯耆守のホウキ)
千種忠顕(チグサ)

楠木正成/wikipediaより引用
こうして出来た構図が以下の通りです。
北朝=持明院統・光厳天皇&足利尊氏など
南朝=大覚寺統・後醍醐天皇&楠木正成など
この対立が続いていた数十年間のことを【南北朝時代】と呼びます。
事の発端である後醍醐天皇はこの状態になって三年後に薨去。
その間に三木一草をはじめとした多くの南朝方武士も敗死していきました。
失礼を承知でかなりキツめに申し上げますと、
「後醍醐天皇のワガママのせいで6年も政治が停滞した上、要らん戦死者を出しまくった」
といっても過言ではないかなぁと。
しかも南朝方もそれぞれのメンツや利権があるので、すぐに「もう後醍醐天皇がいないから降参します」とはいかず、南北朝の問題は数十年も続くことになります。
ここで、室町幕府のほうに視点を写しましょう。
幕府が開くも壮大な兄弟喧嘩が勃発
上記の通り、室町幕府は南北朝の対立が発生する中で始まったわけです。
が、次第に幕府の中でも対立が起き始めます。
そして、近年名著が出て有名になった【観応の擾乱】にまで発展してしまいました。
端的に言えば足利尊氏と、その弟・足利直義のバトルです。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
元々は尊氏の弟・直義を妬んだ尊氏の側近・高師直とその周辺による対立が発端ですが、これに尊氏の庶子で直義の養子になった直冬が絡んだために、余計話がこじれてしまいます。
「尊氏と直義は元々仲が良かった」というところがより一層悲劇な感がしますね……。
もはや内紛がお家芸である”源氏の呪い”を疑うレベル。
尊氏は直義方に対抗するため、南朝に降伏する印として、南朝の使っていた年号である「正平」を北朝でも使うことを決めました。
【正平一統】といいます。簡単に言えば政治的譲歩ですね。
しかしその後、南朝方の武士が京都を占拠し、三種の神器まで奪うという大事件が起きて統一はおシャカになり、再び南北朝の対立は続きます。
実のところ尊氏も、後醍醐天皇と敵対してしまったことはかなり悔やんでいたようで……。
後醍醐天皇が崩御した後には菩提を弔うためにお寺を建てたほどですから、本当は自分が生きているうちに問題を解決したかったのでしょう。
そもそも「尊」の字も、後醍醐天皇の諱(※)である尊治(たかはる)から賜ったものでしたし。
直義は正平七年=文和元年(1352年)に降伏し、同年急死。
その後、直冬が暴れたものの始末がつき、尊氏も正平十三年(1358年)に亡くなりました。
そして尊氏の息子・足利義詮(よしあきら)が二代将軍になります。

足利義詮/wikipediaより引用
ただ、彼も京都を奪われたり取り戻したり、幕府側から南朝方へ寝返った武士がいたり……という落ち着かない状態が続きました。
※諱(いみな)……貴人の本名のこと。昔は本名には言霊が宿るとされ、滅多に口に出すものではないとされていたため「忌み名」=「諱」とされ、記録上でしか使われなかった
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