文明九年(1477年)11月11日は【応仁の乱】が終結したとされる日です。
そもそも始まり方がグダグダで、終わった日についても諸説ありますが、今回は吉川弘文館さんの書籍『今日は何の日事典』(→amazon)に準拠させていただきました。
11月11日というのは、東西の総大将だった細川勝元や山名持豊の死後、惰性的に戦っていた畠山氏や大内氏が兵を引きあげた日なんですね。
学校の教科書より、もうちょっと詳しく全体の流れと影響を見ていきたいのですが、応仁の乱は京都だけの合戦でもなく、全国を巻き込んでいますので、各地での戦闘にも目を向けるほうが良さそうな気がします。
人名・地名はできるだけ省いてコンパクト解説に取り組んでみたいと思います。
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将軍・管領・守護大名たちの争い
まずは戦いの前に、当時の全体的な情勢について。
3つの要因を把握しておくと理解が早くなりそうです。
要因①九代将軍を巡る対立
本来なら【応仁の乱】における主軸のハズなのに、途中から、元凶の足利義政が「イチ抜けた!」とばかりに引っ込んでしまうので、影が薄くなっています。
当初、義政には息子がおらず、出家していた弟・足利義視を無理やり還俗させ、次代の将軍にしようと画策していました。
が、そんなタイミングで日野富子との間に義尚が生まれ、直接、将軍職を継がせたくなり……という流れです。
実は日野富子としては足利義視を中継ぎにして、自身の息子を次の将軍にすればOKと考えていたという見方もあり、この辺、非常にややこしくなっています。
要因②管領家の対立
室町幕府のお偉いさんたちのうち、ナンバー2である「管領職」に就ける畠山・細川・斯波の三家を「三管領」と呼びます。
本来は幕府の内外を取り締まるべき彼らが、家同士で対立するだけでなく、自分の家の内部でも揉めていました。
要因③守護大名たちの混乱
応仁の乱が始まると、東は東海地方、西は中国・九州地方の大名が乗っかってきます。
例えば、各地方の大名家でも後継者争いが勃発していた――などの対立があり、それぞれが自分たちに有利なほうへ進めるため「じゃあ三管領のうち◯◯家に味方する代わりに、便宜を図ってもらおう」という目的で◯◯家に接近したり、京へ兵を出したりしました。
主にこの3つが絡まり合って、後世の人間に頭痛をもたらせてくれるのです。
前兆は嘉吉の後に発露していた
話の流れとしては、もう少し前の時代も関係してきます。
応仁の乱の前兆は、六代将軍・足利義教が殺される【嘉吉の乱】にありました。
その功績によって、山名氏が急激に力を強めたのです。
山名氏は【四職(ししき / ししょく)】と呼ばれるお偉いさんの家であり、幕政の中核にいた三管領の畠山氏や細川氏はこれをよく思いません。
【三管領】
・細川氏
・斯波氏
・畠山氏
【四職】
・赤松氏
・一色氏
・京極氏
・山名氏
自分たちの立場を脅かしかねないので、当たり前といえば当たり前です。
そんな感じでギスギスする中、彼らはお互いに味方を増やすべく、周辺地域の守護大名に介入したり、お家騒動に手と口を出し始めました。
「争いを避けなければならない」とか「人を殺してはいけない」なんて、命に関わる倫理観すら確立されていない時代ですから、まぁ、仕方ありません。
そして当時の山名氏当主・山名持豊(宗全)と、細川氏の当主・細川勝元が諸々の理由で対立を激しくしていきます。
もう、この二人の対立だけでいくつか記事が書けそうなぐらい、ややこしくて長い……(´・ω・`)
応仁の乱を教科書のように三行で説明することの難しさがうかがえます。
そのとき信濃の小笠原氏では
早速おさらいですが、応仁の乱を激化させる要因は以下の3要素です。
要因①九代将軍を巡る対立
要因②管領家の対立
要因③守護大名たちの混乱
もう少し各地の対立構図を見ていきましょう。
注目は【信濃の小笠原氏】です。
足利尊氏が鎌倉幕府に逆らった頃、当時の当主だった小笠原貞宗が尊氏についたのです。
そして貞宗の出身地だった信濃の守護を代々任されるようになります。
室町幕府にとっては、草創期からの味方ですね。
時が流れ、嘉吉二年(1442年)に当主の小笠原政康が亡くなると、その子・小笠原宗康と従兄弟の小笠原持長が当主の座を巡って対立。
なぜ従兄弟(当主から見れば甥っ子)が出しゃばるんだ? と思われるかもしれません。
持長は在京期間が長く、【結城合戦】や【嘉吉の乱】における赤松氏討伐に功績があった上、管領・畠山持国との縁戚関係もあったため、政治的に立場が強かったのです。
しかし、小笠原氏の内部では「地元のことをよく知らない持長が上になるのはちょっと……^^;」と考えられました。
この時代、地元の有力者である国人(国衆)の勢力は侮れず、守護には彼らとうまくやっていく手腕が問われたのです。
幕府もそのように考え、より地元に馴染みのある小笠原宗康を新たな信濃守護に任じました。
しかし、事態はそれで鎮静化してくれません。
守護になれると思っていた持長に同調する小笠原家臣や国人もおり、宗康派vs持長派で家が真っ二つに割れてしまったのです。
そして文安三年(1446年)、【漆田原の合戦】で宗康が持長に敗死。
宗康は「自分が討ち死にした場合は、弟に家督を譲る」と明言していたため、今度は弟・小笠原光康が家臣に担がれ、持長との対立が続きます。
しかも、そこに宗康の遺児である宗康の子孫が加わって三つ巴状態になってしまいます。
【三つ巴の内紛】
・小笠原持長
・小笠原光康
・小笠原宗康の遺児
ややこしいのは三管領が異なる勢力を支持していたことです。
細川勝元が光康、畠山持国が持長についていました。
そのとき加賀の富樫氏では
もう一つ地方の争いを。
加賀の富樫氏に注目です。
富樫氏は、藤原北家魚名流を祖とする家で、初代の富樫泰家は源義仲に仕え、倶利伽羅峠の戦いで活躍した人でした。
義仲が討たれた後は源頼朝のもとで働いております。
彼らには際立った特徴がありました。
歌舞伎『勧進帳』や能の『安宅』に出てくる安宅の関の【関守のモデル】だと言われているのです。
弁慶の機転に感じ入って義経一行を通してやり、頼朝の勘気を蒙ったという逸話があります。
嘘っぽいといえば嘘っぽいんですが、平安末期の価値観ならありえなくはない気もしますね。能や歌舞伎そのままではないにしても面白い話です。
応仁の乱に関係してくるのは、七代目の当主・富樫教家とその弟・富樫泰高。
例によって背後に有力者がついていて、教家には畠山持国、泰高には細川勝元がおり、
持国と勝元による管領就任のたびに加賀の守護職もコロコロ変わって大混乱に陥りました。
このような争いが、やがて斯波氏や畠山氏など、他の有力守護大名家や管領家にも及びます。
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