杭瀬川の戦い

徳川家康(左)と石田三成/wikipediaより引用

合戦・軍事

杭瀬川の戦い1600年|西軍の勝利だった関ヶ原前哨戦 家康も三成もガクブル

2024/09/13

旧暦9月といえば関ヶ原の戦い。

本戦(15日)が、あまりに早く決着がついてしまったため、北では伊達政宗、南では黒田官兵衛が( ゚д゚)ポカーン状態になるわけですが、実はこの早期決着は他ならぬ徳川家康も驚いておりました。

なぜかというと、関ヶ原本戦の前日時点では三成のいる西軍が有利だったとも考えられるからです。

石田三成の肖像画

石田三成/wikipediaより引用

慶長五年(1600年)9月14日、前哨戦ともいえる【杭瀬川の戦い】がありました。

「くいせがわのたたかい」と読みます。

 


杭瀬川の戦い 2ヶ月前のこと

時計の針を同年の9月から7月へと戻しまして。

もともと家康は会津の上杉を叩き潰すつもりで東北へ進軍しており、その途上で石田三成が挙兵したものですから、「どうしよう、どうしよう」とパニックになります。

関ヶ原の戦いというと、とかく【家康の仕掛けた罠に三成が引っかかった】という風に描かれがちですが、それはあくまで結果ありきの話であって、西軍の蜂起に対し東軍・家康だって100%勝てるだなんて自信はありません。

力が拮抗しており負ける可能性だって十分ある。

そうでなければ東と西で迷ったりする武将などいないでしょう。徳川が確実に勝てる状況だった【大坂の陣】とは違います。

そこで家康は7月25日、あわてて軍議を開きました。

有名な【小山評定】です。

※以下は「小山評定」の関連記事となります

小山評定と上杉征伐
上杉征伐と小山評定からの家康vs三成~関ヶ原が始まる直前に何が起きていた?

続きを見る

そこで、豊臣恩顧筆頭の福島正則が

「三成みたいな茶坊主は許せん!俺たちはタヌキじいさんに付いていくぜ!」(超訳)

と言えば、山内一豊も

「俺なんか、家康さんにお城(掛川城)を提供します!」(超訳)

と応えます。

福島正則の肖像画

福島正則/wikipediaより引用

山内一豊については、西軍からもスカウトの手紙が来ていたのですが、正妻・千代の機転でその手紙を家康に最初に読ませて夫婦の忠誠心をアピールし、後に土佐20万石を得るに至った逸話【笠の緒文(おぶみ)】がよく知られておりますね。

小山評定については後世の創作という議論もありますが、ともかく東軍は方針を変更。

家康は8月5日に自分の居城「江戸城」に戻ると、なぜか引きこもってしまいました。

 


家康動かず……ザワザワ……ザワザワ…

やる気満々の福島さんら豊臣恩顧の武将は東海道をズンズンと驀進して、愛知県の清洲城まで進撃します。

ところがいつまで経っても家康が来ません。

福島たちは不安になってきます。

「すぐに清洲に来ると言っていたじゃないか!」

「もしかして、うちら捨て石?」

ザワザワ、ザワザワ……。

一緒に先発隊にいた家康の部下・本多忠勝は真っ青になって「まあ、まあ」と必死になだめます。

本多忠勝の肖像画

本多忠勝/wikimedia commons

8月19日になって、ようやく家康の使者が来ます。

そして、こんなことが伝えられました。

「先行部隊の威勢がいいもんだから見守っていたんだけど、もしかして皆さん、清洲城を打って出る気ない?」(超訳)

えっ???

思いもよらぬ家康の物言いに対して、忠勝だけでなく、井伊直政も、他の徳川家臣団もびっくり。

しかし、意気に感じた福島正則は、断言します。

「まことにごもっとも! されば、ただちに出陣して、成果をあげてみせよう!」

そして木曽川を挟んで対岸の岐阜城に攻めることになったのです。

うーん、愛しき猪武者よ……。

 

岐阜城を守っていた信長の孫って誰だ!?

かくして福島正則や池田輝政らの新参者たちの東軍は、2日後の21日に清洲城を出発して、岐阜城を攻撃します。

清州城から岐阜城までの距離をグーグルマップで確認しておきますと、現代の距離で約29km、徒歩6~7時間とあります。

黄色→清州城
赤色→岐阜城
青色→大垣城

一方、西軍の将(岐阜城の主)は織田秀信でした。

この秀信さんってのが、また因縁めいておりまして、名字からお察しの通り、織田信長の血縁者。

孫です。

それも単なる孫ではなく清州会議で豊臣秀吉が担いだ、あの「三法師」なんですね。

三法師こと織田秀信の肖像画

三法師が成長して織田秀信となる/wikipediaより引用

つまりこの【岐阜城の戦い】は、ほぼ織田豊臣の重要人物で行われたものでした。

メンツ的にはオールスターって感じですが、戦い自体はあっさり3日で陥落。

東軍はその勢いで、三成たち西軍の主力が集結している大垣城のすぐそば、赤坂というところまで進撃します。

 


家康の着陣を信じたくない三成

江戸城に引きこもりを決めていた家康。

この一報を受け「あれ? もう勝っちゃったの」と出陣せざるをえなくなり、9月1日、ようやく重い腰をあげます。

3万の旗本を率いて強行軍かつコッソリと西へ。

通常は堂々と見せびらかすのぼりや旗をたてず、手にもって進みました。

徳川家康の肖像画

徳川家康/wikimedia commons

9月14日、大垣城のそばを流れる杭瀬川近くの赤坂に布陣。

そこで、これまで隠していた【葵紋の旗7本】をはじめ、たくさんの旗や幟を一斉に立てたのです。

「うおー!」と盛り上がる東軍たち。

しかし、家康がいると報告を受けた三成は当初これを信じませんでした。

「何言ってんだ、家康は今江戸にいるはずだからこんなところにいるわけないだろ? 金森長近が似た旗使ってるから、それと見間違えたんだろ?」

そんな風に強がりますが、実際はガクガクブルブル。

家康の着陣を信じたくない三成は改めて偵察させますが、結果は「家康の側近がいました(キリッ」という全く嬉しくないもの。

 

三成の混乱を鎮めるため左近が奇襲が仕掛ける

「マジで家康だああああああ!!」と大混乱に陥りそうな西軍。

なだめたのは三成の側近・島左近(清興)でした。

「殿! これ以上ここでじっとしてても仕方ありません。向こうはまだ着いたばかりだろうから、今のうち軽く一戦して叩いておけば、こちらに勢いがつくはずです」

三成も、これでようやく我に返ります。

左近は蒲生郷舎(元・蒲生氏郷の家臣)と共に500人の少数で、東軍へ奇襲を仕掛けました。

このときの戦法がカッコイイ。

川を渡って密かに東軍へ近付き罵声を浴びせ……目の前の田んぼを刈ったりして挑発。

敵がいる目の前でそんな余裕ぶっこいた真似をされては、さすがに東軍も黙っていられません。

東軍の将・中村一栄(かずしげ)隊が刈田を止めるために出てきます。

杭瀬川(岐阜県大垣市)/photo by Monami wikipediaより引用

もちろんこれは左近の予想通り。

多少の犠牲は出てしまったものの、少しずつ川のほうへ退却します。

渡河中の戦は困難なものです。

もちろん東軍諸将もそれを知っていますから、この機を逃すなとばかりに猛攻をかけます。

しかし左近も戦上手、そう簡単にはやられません。

そして川を渡りきり、さらに大垣城に向かって退却を続けます。

 

家康ブチ切れ!左近は意気揚々と本陣へ

追う中村隊が同じく川を渡り、対岸に着いたその時!周囲の草むらから西軍の兵がワラワラと湧き出てきました。

「かかったな!」

退路を絶たれた中村隊は囲まれてようやく計略であったことに気付きましたが、時既に遅し。

逃げていたはずの左近隊が挟み撃ちを仕掛けてきたため、大苦戦に陥り、家老だった野一色頼母(のいっしきたのも)もこの混戦の中で死んでしまいました。

東軍もただ黙って見ていたわけではありません。

中村隊の苦戦を感じ取った有馬豊氏という大名が救援に向かいます。

しかし、これまた西軍・宇喜多隊の明石全登(あかしたけのり)に横っ腹から集中砲火を受けて撤退を余儀なくされてしまいました。

「勝手に出陣したあげく負けるとは、あのバカモノども!!」

この様子を山の上から見ていた家康は当然ブチ切れ、井伊直政と本多忠勝を戦地へ向かわせると強制的に兵を退かせました。

策を見事成功させた左近はこの結果に満足し、深追いすることなく引き上げます。

島左近/wikipediaより引用

戻ってみると、家康登場で混乱していたのが嘘のように西軍は大盛り上がり。

士気を上げるという当初の目的は無事果たされたのでした……が、そのテンションは翌日見事にひっくり返されることになります。

翌日とは他でもありません。関ヶ原の戦い本戦であり、西軍は裏切りの連鎖によりわずか一日で敗北してしまいました。

その辺りの関連記事は以下にお譲りしますので、よろしければ併せてご覧ください。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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