佐和山城の戦い

豊臣家 豊臣兄弟

関ヶ原直後に起きた佐和山城の戦い~三成の居城で起きた「女郎墜の悲劇」が辛い

慶長5年(1600年)9月15日に関ヶ原の戦いが勃発。

そのわずか2日後の9月17日、東軍に攻め込まれたのが近江の佐和山城です。

佐和山城とは、石田三成の居城。

つまり、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、三成の息の根を完全に止めるため、その本拠地へ襲いかかったワケです。

佐和山城の戦い】などとも呼ばれたりしますが、徳川軍が直接攻めたワケではありません。

攻略を命じられたのは、関ヶ原で「裏切り者」たちと呼ばれた武将たち。

三成に苦汁を舐めさせた張本人たちです。

彼ら裏切り者たちも忠誠心を試されるのですから必死であり、最終的に色々と切ない悲劇へと収束していきました。

さっそく振り返ってみましょう。

※以下は関ヶ原の戦い関連記事となります

関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いは家康vs三成の本戦だけでなく全国各地で合戦が勃発【総まとめ】

続きを見る

 

三成最後の頼りは毛利に立花!

関ヶ原で敗北した石田三成は、まず背後にあった伊吹山に逃れ、その後、右往左往しながら逃走を続けました。

石田三成
石田三成・日本史随一の嫌われ者の再評価とは? 豊臣を支えた忠臣41年の生涯

続きを見る

西軍の正式な総大将は毛利輝元毛利元就の孫)です。

彼は結局、大坂城にステイしていたので、逆に言えばまだ兵力を温存しているということにもなります。

なんといっても毛利家は西国随一の大大名。単独でも3万程度の兵は動員できるはずでした。

さらには、西軍最強の武将とよばれる立花宗茂も無傷であります。

立花宗茂
西の戦国最強と称された立花宗茂~浪人から大名へ復活した76年の生涯

続きを見る

三成はこれを諦めきれず、再戦しようとしていたのでしょう。

そのためにはまず居城の佐和山へ戻り、支度をしてから大坂へ向かう必要があります。

しかし、その間に、佐和山城と家族が大変なことになったのです。

 

佐和山城の戦いに参戦したのは小早川秀秋たち

留守の佐和山城を守っていたのは、三成のお父さん・石田正継や、お兄さん・石田正澄など、石田一族が中心。

ほとんどの兵は関ヶ原へ出払っており、残っていたのは2,800人ほどで、しかも、老兵や女性などしかいなかったともいわれています。

兵としてカウントできたのは1,000ほどだったとか。

佐和山城の曲輪

対する東軍はといえば、損耗はしているもののまだまだ兵力には余裕がありました。

先鋒は、日本史上最大の裏切り者の名をほしいままにする小早川秀秋

小早川秀秋
関ヶ原の裏切り者・小早川秀秋はなぜ東軍に?儚い21年の生涯まとめ

続きを見る

実は最初から東軍だと思われていたという見方が有力ですが、このとき同行していたのが、朽木元綱や小川祐忠、脇坂安治、赤座直保だったのです。

朽木、小川、脇坂、赤座の4名は、関ヶ原の当日に裏切りが判明し、大谷吉継平塚為広らの軍を壊滅に追い込み、関ヶ原の動向を思いっきり左右した人物でありました。

平塚為広
関ヶ原に出現した「第二の裏切り者」対峙した平塚為広の奮戦ぶりに泣ける

続きを見る

家康はそんな彼らに佐和山城攻めを命じたのです。

佐和山

なお、搦め手(裏門)からの攻略部隊は、近江出身かつ豊臣系武将だった田中吉政を配置。

万全とも言える態勢でした(実際、この田中吉政の部隊が後に石田三成を捕縛します)。

家康自身は、佐和山の南方にある平山に陣取り、戦いの行方を眺めることにしました。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-豊臣家, 豊臣兄弟
-

×