大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目される「墨俣一夜城」。
豊臣秀吉の出世物語で特に際立った功績であり、岐阜県内には「一夜城」を愛称とする歴史資料館もある程ですが、現在その話は「史実ではない」という認識で定着しています。
ならばなぜ、今なおこの話題は広がっているのか、果たして墨俣城は存在していたのか、振り返ってみましょう。

『絵本太閤記』木下藤吉郎 洲の股に砦を築く/国立公文書館
一夜はあくまで比喩
そもそも墨俣一夜城は、書物でどのように記されているのか?
小瀬甫庵『太閤記』をはじめ様々な物語で描かれていて、「これが正しい」というものはありません。
作品によって内容が少しずつ異なっており、基本となるフォーマットは以下の通りになります。
①美濃攻略の足がかりとして、信長が家老たちに墨俣への築城を命じる
②墨俣は、木曽川・長良川・揖斐川(いびがわ)が流れる湿地帯であり、建設は困難を極めた
③「この難事をやり遂げる者はいないか?」と信長が希望者を募り、名乗り出たのが秀吉
④秀吉は蜂須賀小六ら地元の土豪を集め、昼夜通して工事をさせた
⑤見事、墨俣に砦が築かれ、秀吉は信長の覚えがめでたくなった
実際の工事期間は書物によってまちまちであり、いずれも2~7日ほどを要していて一晩では出来ていません。
「一夜城」というのは、あくまで比喩表現なんですね。
では、こうした墨俣一夜城の物語は、どんな風に広がっていったのか。

『絵本太閤記』木下藤吉郎 洲の股に砦を築く/国立公文書館
『信長記』や『信長公記』では?
小瀬甫庵が記した『信長記』の中には以下のような記述があります。
「永禄四年(1561年)5月上旬に信長が洲俣(すのまた)に要害を築かせた」
西美濃へ侵攻する織田軍に対し、斎藤軍が迎え撃った、いわゆる「森部の戦い」と呼ばれる合戦。
その中に「洲俣に要害を築かせた」という一文があるのですが、むしろこの戦いで注目されるのは前田利家でした。
信長を怒らせて出仕停止となっていた利家が、勝手に戦に参加して敵将の首を取るという大きな手柄を挙げ、追放処分が解除されたのです。
次に『信長公記』です。
「永禄四年(1561年)5月13日、斎藤龍興は洲の俣から森辺方面へ軍勢を出した」
「永禄四年(1561年)5月24日朝、織田信長は洲の俣に帰陣。後に洲の俣の砦は引き払った」
『信長公記』では、洲俣(洲の俣・すのまた)に砦らしきものを作り、特にこだわることなく引き払っていることが伝わってきて、その後、墨俣城や墨俣一夜城への言及はありません。
実にサッパリしたものです。

『絵本太閤記』洲の股の砦 一夜に成る/国立公文書館
墨俣一夜城の伝説は続く
墨俣城の築城は、その後も『甫庵信長記』や『甫庵太閤記』『絵本太閤記』などで記され続け、注目したいのが明治時代に成立した『安土桃山時代史』です。
そこでは「秀吉が単独で墨俣に築城した」と記載。
さらには昭和の戦後に発見された『武功夜話』と呼ばれる文書の中から「藤吉郎が一夜で完成させた」という話が出てきたことにより、以降、センセーショナルな史実として広まりました。
ただし、大きな問題があります。
確かに『武功夜話』では「7日以内に城を作る」と宣言した秀吉が、事前に柱や梁を組み立て墨俣に運び込み、一晩で組み立てたことになっています。
しかし『武功夜話』そのものが「適切な史料ではない」と目されていて、史実とは認められていないのです。
要は、各種の物語(フィクション)と同じく「そういう伝説があるのね」という扱いなんですね。
それがいつしか史実として認定されてしまった。
『信長公記』の著者である太田牛一が記した『太閤さま軍記のうち』にも墨俣城の記載はありません。
『絵本太閤記』でも実際に城を建てたとは書かれていない。
塀に板を打ち付け、白紙を張り、矢狭間、鉄砲穴を絵で描くことで、敵方から見れば「一夜にして城が出来た!」と勘違いさせるように見せた。
それが「墨俣一夜城」と称され、字面から「秀吉が本当に一晩で城を作った」という解釈に補強されたのでしょう。
書物だけでなく、江戸時代から続いた講釈や演劇などによって、脚色が続けられた影響もあると思われます。

笑っているように見えますが、斎藤軍の兵士が驚いています『絵本太閤記』洲の股の砦一夜に成る/国立公文書館
そもそも秀吉は何と言っていた?
豊臣秀吉自身は墨俣一夜城のことをどう考えていたのか?
秀吉は御伽衆の大村由己(おおむらゆうこ)に『天正記』という書物をまとめさせ、自らの出自を喧伝しました。
その中で、墨俣一夜城のことは何も触れられていません。
『天正記』はその名の通り、主に天正八年(1580年)以降の秀吉の事跡を記しています。
永禄年間の話である「墨俣一夜城」が『天正記』で語られないのは当然でありますが、もしも本当に信長から認められ、出世の大きな契機となっていたのであれば、秀吉もそれを誇っていたのでは?
いくらでもねじ込むことが出来そうなインパクトの大きな話なのに、触れられないとはかえって不自然です。
秀吉本人も、美濃エリアでの砦構築や攻防は、あくまで通常の戦闘の範囲内であり、特別な認識などなかったのではないでしょうか。

豊臣秀吉/wikimedia commons
結論
墨俣一夜城については、まとめるとこうです。
・美濃攻略において墨俣エリアでの織田軍vs斎藤軍の戦闘はあった
・城や砦らしき施設は作られた(当時の城は簡易的な土木工事でも城や砦とされた)
・秀吉が美濃国内の砦や城で活躍した記録はある
・しかし墨俣一夜城そのものではない
重要なのは「一夜で城を建てたかどうか」ではなく、身分の低い秀吉が美濃攻略で大いに働き、そこには蜂須賀正勝や前野長康など「川並衆」と呼ばれる者たちの助力があったということでしょう。
実際にこの三名はそこから大きく出世していくわけで、様々な戦闘や軍事施設を作る働きはあったはずです。
それが墨俣一夜城という話に落とし込まれ、後世のフィクションでも描かれるようになった。
あくまで象徴的な出来事として、静かに見届けるのがよろしいのかもしれません。
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|豊臣秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
参考書籍
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
堀新/井上泰至ほか『秀吉の虚像と実像』(2016年6月 笠間書院)
小和田哲男『豊臣秀吉』(1985年11月 中央公論新社)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年10月 吉川弘文館)
柴裕之/かみゆ歴史編集部『太閤記解剖図鑑』(2025年11月 エクスナレッジ)
国史大辞典
【TOP画像】『絵本太閤記』木下藤吉郎洲の股に砦を築く(国立公文書館より引用)
