大河ドラマ『豊臣兄弟』の第7回放送に登場する蜂須賀正勝(小六)。
豊臣秀吉の出世のキッカケとなる美濃調略から後の天下取りに至るまで絶対に欠かせない側近であり、特に二人が矢作橋で出会うシーンはフィクションでもお馴染みですが、あれは一体どこまで本当だったのか?
どういう状況をもとに描かれたのか、さっそく振り返ってみましょう。
矢作橋で二人は出会った?
蜂須賀正勝に対して抱くイメージ――それは野性味溢れる盗賊の頭領であり、いかにも「ワイルドな小六像」を思い浮かべる方は少なくないでしょう。
二人の出会い方については『絵本太閤記』に記された非常に有名なシーンがあります。
◆『絵本太閤記』の秀吉と小六(155?年)
あるとき秀吉が三河岡崎の矢作橋で寝ていた。
すると野武士の頭領である蜂須賀正勝が通りかかり、秀吉の頭※1を蹴飛ばしてしまう。
秀吉はすかさずこう告げる。
「自分は幼いが、頭を蹴られるおぼえはない!」
物怖じしない少年の態度に関心した正勝は、一通り非礼を詫びると、秀吉を連れてその後、強盗の手伝いなどをさせていた。
しかし、秀吉は間もなく去り、今度は頭陀寺城の松下之綱に雇われ、草履取りから出世。
出世しすぎて周囲の嫉妬を買い、イジメに遭ったため、新たな主君を求めて城を出た(そして織田信長に仕えることになった)。
※1『真書太閤記』等では足を踏んでいる
イメージとしては、やはりワイルドな盗賊が近いでしょうか。

月岡芳年 『美談武者八景、矢矧の落雁』/wikimedia commons
しかし結論から申しますとこれは完全に『絵本太閤記』の創作。
当時の矢作川には橋がなく渡し船が用いられていたことが証明されています(実際にかけられたのは1600年頃)。
では、蜂須賀正勝はどういう経緯で秀吉に協力することになったのか?
そもそも蜂須賀はどんな出自だったのか?
秀吉の美濃調略に一役買う
蜂須賀正勝は大永六年(1526年)生まれ。
父は蜂須賀正利で、もともとは尾張国海東郡蜂須賀郷出身の裕福な土豪でした。

蜂須賀正勝/wikimedia commons
正勝はその後、木曽川の水運事業に携わるようになり(川並衆ともされる)、犬山城の織田信清や岩倉織田氏の織田信賢、さらには斎藤道三などに協力して長良川の戦いにも参加したとされます。
道三がそこで討死するのは弘治2年(1556年)4月のことですから、少なくともそれまでは織田信長や秀吉に味方をしていたわけではないでしょう。
では、いつからなのか?
『寛政重修諸家譜』によると永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで武功を挙げ、元亀元年(1570年)金ヶ崎の退き口でも秀吉の与力として協力したとされます。
桶狭間の戦いから金ヶ崎の退き口までは約10年もの開きがあり、『その間、何してたのよ?』という疑問が湧いてくるわけで、一つの目安となるのが永禄八年(1565年)でしょう。
この年11月に、秀吉が初めて適切な史料に登場するのです。
後世で創作されたあやふやな物語ではなく、美濃の国衆・坪内利定に宛てた領知安堵状(副状)に秀吉の名前が載っている。
なぜ名前が載っていたのか?というと、美濃の国衆を味方にすべく調略工作を仕掛けていたことが証明されたわけです。
そして、こうした調略に一役買っていたと思われるのが蜂須賀正勝でした。
木曽川の水運事業に携わっていた蜂須賀は、周辺の国衆などとも関わりが深く、そこで秀吉に協力したのですね。
同じく大河ドラマ『豊臣兄弟』に登場する前野長康とも繋がりは持ったでしょう。
桶狭間から鵜沼城攻略の間に
蜂須賀正勝の辿ってきた道をいったん整理してみます。
◆蜂須賀正勝の軌跡
大永六年(1526年)に生誕
弘治2年(1556年)長良川の戦いに参戦
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いに参戦
永禄八年(1565年)秀吉が美濃調略で活躍(背後に蜂須賀の協力ありか)
元亀元年(1570年)金ヶ崎の退き口に参戦
ポイントとなるのが永禄三年(1560年)桶狭間の戦いから永禄八年(1565年)にかけての5年間。
永禄三年までに正勝は織田信長に仕え、秀吉の与力となっていったのではないでしょうか。
永禄八年(1565年)は、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目された大沢次郎左衛門の鵜沼城が調略された年であり、美濃攻略がかなり前進した年でもあります。
逆に言うとそれまで信長は幾度か美濃へ攻め込むも、決定的な支配には至らず小競り合いが繰り返されていました。
愚将とされる斎藤龍興ですが、当時は斎藤氏の家臣団が踏ん張っていたのです。
そんな状況の中で、ようやく実ったのが鵜沼城や坪内利定の攻略。
東美濃の鵜沼城周辺には猿啄城(さるばみじょう)や加治田城もあり、付近一帯を押さえれば美濃斎藤氏へ攻め込む重要拠点となりました。
そしてその後、信長は、美濃の中央や西側にも拠点の構築を目指します。
そこで登場するのが有名な「墨俣一夜城」です。
事前に川の上流で木材の骨組みを仕込んでおき、現場で組み立てるだけで「一晩で城を作った!」というお話ですが、ここでも蜂須賀正勝の協力があったとされます。
墨俣一夜城もまた創作とされます。
ただし、全くの作り話でもなく、秀吉が何らかの拠点の構築、あるいは砦の防御で働いたという見方があります(詳しくは後日)。
蜂須賀についての詳細は別記事「蜂須賀正勝の生涯」も合わせてご覧いただければと存じます。
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
参考書籍
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(2025年11月 幻冬舎)
小和田哲男『戦国武将の実力』(2015年10月 中央公論新社)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年10月 吉川弘文館)
柴裕之/かみゆ歴史編集部『太閤記解剖図鑑』(2025年11月 エクスナレッジ)
【TOP画像】蜂須賀正勝と秀吉が出会った場面を描いた月岡芳年『美談武者八景、矢矧の落雁』/wikimedia commons
