大河ドラマ『豊臣兄弟』に登場している斎藤龍興(たつおき)って一体何様なの?と思われませんでしたか。
斎藤道三の孫でありながら「あのジジイ」と毒づき、家臣の大沢次郎左衛門に対しては「妻を人質として寄こせ」と睨みつけるなど、いかにも思慮浅はかな人物描写でしたが、それには理由があります。

道三が築いた美濃斎藤家を滅亡させ、戦国ファンには「愚将」として知られるのです。
そんな龍興の事績に注目してみましょう。
対立していた父の義龍と祖父の道三
斎藤龍興は天文十七年(1548年)生まれ。
父は斎藤義龍、母は浅井亮政の娘とされます。
ドラマの中で斎藤道三のことをジジイ呼ばわりしていたのは、龍興の父である義龍が、その父である道三と対立し「長良川の戦い」で討ち取ったからかもしれません。
【祖父】斎藤道三
│
【父】斎藤義龍
│
【本人】斎藤龍興
しかし、父の義龍は永禄四年(1561年)5月11日、33歳の若さで急逝してしまいます。
斎藤家にとっては大きな痛手、敵対していた織田家にとってはまたとない吉報でした。

斎藤義龍/wikimedia commons
義龍が当主の時代、信長は美濃へ攻め込むも大きな成果を挙げられずにいました。
もしも義龍が壮健で50歳前後まで生きていたら、信長の美濃攻略は何倍もの時間がかかったか、あるいは落としきれず西の隣国・伊勢へ矛先を変えていたかもしれません。
それだけに、まだ14歳の龍興が跡を継いだと知ったときは欣喜雀躍としたことでしょう。
なんぜ信長は、義龍の死からわずか2日後に美濃へ攻め込んでいるのです。
森部の戦い
永禄四年(1561年)5月13日、信長は、義龍のいなくなった美濃へ軍勢を送り、自身も進軍。
そして翌14日、墨俣砦から出てきた斎藤軍と衝突します。
前田利家が、「首取り足立」として恐れられた足立六兵衛を討ち取ったりするなど、この「森部の戦い」で大きな戦功を挙げ、墨俣砦を奪取しました。
もちろん斎藤軍もただ黙ってはいません。
約10日後の5月23日、稲葉山城から兵を繰り出し、十四条に布陣すると、夜になって両軍は激突。
池田恒興や佐々成政らの働きもあり、この戦いに勝利した織田軍は、翌6月も稲葉山城付近まで進軍して龍興を圧迫しますが、決定的な成果を挙げるには至りません。
もしかして斎藤龍興って、愚将どころか有能なのでは?
14歳にしては上出来じゃない?
そんな風に思いそうになるも、永禄七年(1564年)、体制を揺るがしかねない大事件が起きます。
竹中半兵衛による「稲葉山城乗っ取り事件」です。
稲葉山城乗っ取り事件
時は永禄七年(1564年)2月6日――当時、斎藤龍興の家臣だった竹中半兵衛は、弟の見舞いと称して稲葉山城へ。
重臣であり、義父である安藤守就も仲間に引き入れ、わずかな手勢と共に城内へ入ると、斎藤龍興やその側近を追い出し、城の占拠に成功するのです。

竹中半兵衛/wikimedia commons
半兵衛の狙いは諫言だったとされます。
敢えて居城を奪うという派手なパフォーマンスをして、一部の側近を重用する斎藤龍興に注意を促す――。
何が狙いにせよ、尋常ではない事態であることは明らかであり、果たしてそれがどれだけ当事者たちに伝わっていたか。
追い出された斎藤龍興や側近たちは、城下の人家に火をかけると、周囲に拠点を構えて対陣。
半兵衛たちの強硬策に対し、斎藤家や武田家と関係が深い僧侶・快川紹喜も「恥知らずで義のない連中」だと批判します。
たしかに主君を居城から追い出すなど、義の無い行為と指摘されても仕方がないでしょう。
しかし、竹中半兵衛と安藤守就は、そのまま稲葉山城を乗っ取る気はなく、約8ヶ月後の永禄七年(1564年)10月下旬までに城を明け渡します。
この一件から浮かんでくるのは、龍興の人望の無さ――とは指摘したくなりますが、まだ17歳の龍興に何ができたのか。
結果、次に美濃で権力を握ったのは長井道利でした。
武田との同盟に至るも時すでに遅し
長井道利は斎藤道三の息子であり、龍興から見れば叔父に当たる人物。
乗っ取り事件に関わった安藤守就は美濃の国政から外されます。
道利は、織田家への対抗手段として、武田信玄との同盟を模索し、永禄八年(1565年)頃より快川紹喜を通じて交渉を進めました。
この永禄八年は、夏に、東美濃の鵜沼城(うぬまじょう)・猿啄城(さるばみじょう)をはじめ、加治田城、堂洞城などが織田方に陥落させられており、もはや斎藤家は一刻の猶予もない状況。
こうした事態を受け、翌永禄九年(1566年)11月、ようやく武田との同盟締結に至ります。
しかし、時すでに遅し、でした。
度重なる信長の攻撃を受け、もはや美濃は限界に達していたのでしょう。
永禄十年(1567年)8月に安藤守就・稲葉良通(一鉄)・氏家直元(卜全)らの美濃三人衆が織田方に内応すると、信長は即座に動いて稲葉山城を包囲。
同年8月15日、敗北を受け入れた斎藤龍興は、伊勢長島へ逃げたとされます。
難攻不落で知られる稲葉山城、あっという間の陥落劇でした。

後に岐阜城として知られる斎藤氏の稲葉山城は難攻不落の名城だった/wikimedia commons
義龍の死から約6年。
数えで20歳のときに龍興は美濃国外へ追い出されたわけですが、武田信玄ですら父を追放して当主になったのは21歳です。
さすがに十代の若者が、当時34歳で心身ともに充実した織田信長の侵攻を食い止めるには若すぎたのでは?とも思わされ、単に「愚将」として判断してよいものか……。
やはり竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取り事件のインパクトが強すぎるのでしょう。
よろしければ別記事「竹中半兵衛の生涯」もご覧ください。
参考書籍
柴裕之/小川雄『戦国武将列伝6 東海編』(2024年6月 戎光祥出版)
太田 牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
