斎藤義龍

斎藤義龍/wikipediaより引用

斎藤家

美濃の戦国大名・斎藤義龍の生涯~父は蝮の道三 信長の攻撃を退け続けたその実力

永禄4年(1561年)5月11日は斎藤義龍の命日です。

蝮(マムシ)の異名で知られる斎藤道三の息子にして、その父である道三を【長良川の戦い】で討ち取り、美濃斎藤家の当主となった人物。

大河ドラマ『麒麟がくる』では斎藤高政という名で伊藤英明さんが演じていたのを覚えていらっしゃるでしょうか。

劇中では、本木雅弘さん演じる道三を討ち取ったシーンも注目され、もしかしたら義龍については悪い印象をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、史実においては、ことはそう単純でもないでしょう。

斎藤義龍はなぜ父と対立することになったのか?

本人は一体どんな人物だったのか?

本記事では、史実における義龍の生涯を振り返ってみたいと思います。

斎藤義龍/wikipediaより引用

 


斎藤義龍の母は頼芸から道三に譲られ

斎藤義龍は大永七年(1527年)、斎藤道三と深芳野(みよしの)の間に生まれました。

この深芳野が、なかなか厄介な存在でして、元々は、土岐頼芸(とき よりあき)の側室だった女性であります。

深芳野イメージ(絵・小久ヒロ)

土岐頼芸は、斎藤道三の主君です。

つまり彼女は、上司から部下へ譲られたんですね。

女性をモノ扱いするみたいで眉をひそめる方もおられるかもしれませんが、当時の価値観ですのでいったん脇へ置いておき、先へ進みましょう。

ともかくここで大事なことは、この斎藤義龍が、他にいた道三の子供たちとは【異母兄弟】だったということです。

【戦国時代+武家+異母兄弟】となると、それはもうトラブルの種。

実は弟たちとは同母兄弟の可能性もありますが、現時点では不確定ですので、本稿では、異母兄弟と仮定して話を進めます。

斎藤道三/wikipediaより引用

 


頼芸・父親説は江戸時代末期のお話

斎藤義龍の幼少期は、よくわかっておりません。

天文五年(1536年)に元服を済ませ、「新九郎」と名乗るようになったとされますが、その他はほぼ不明。

元服時の年齢が10才になりますので、一人前の武将として、あるいは道三の後継ぎとして、現場で働くようになるのはもう少し後のことでしょう。

話題になるのは、もっぱら成長後のことであり、有名なエピソードがコチラです。

①母・深芳野は、土岐頼芸の子供を身ごもった状態で道三に嫁いだ

②だから義龍は、本当は道三の子でなく、土岐頼芸の子である

③義龍本人がそれを知ったため、父の敵討ちとして道三に背いた

実はこちらのお話、江戸時代末期になって流布されたもので、内容はかなり怪しいものです。

当時の義龍は「道三の庶長子(側室の息子で長男)」という立ち位置であり、それ以上でも以下でもなかった。

天文十七年(1548年)、道三が稲葉山城から鷺山城へ移り、この時点で道三が隠居すると、ここから義龍の動きがはっきりわかるようになってきます。

※稲葉山城(岐阜城)から鷺山城までは徒歩で1時間20分の距離

おそらく義龍に家督を譲ったからであります。

ただし「道三は隠居していない」とする説もあり、少なくとも実権は手放していないため、二重政権に近い状況ともいえます。

話がキナ臭くなってくるのは、このあたりからのことでした。

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