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【斎藤義龍】
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まずは兄弟を殺して挙兵 戦いは一方的に
斎藤義龍を疎んじるようになった道三。
いよいよ別の息子・孫四郎を正式な跡取りにし、さらに喜平次に「一色右兵衛大輔」と名乗らせ、義龍との扱いの差を明らかにします。
一色氏は室町幕府の要職「四職」の家柄で、要するにお偉いさんの一族です。そう名乗ることによって、箔をつけられるわけですね。
喜平次の母も不確定ですが、深芳野だという説もあります。
さらに深芳野は一色氏の出ともされるため、この場合は母方の名字を使わせたことになりますね。
こうなると、義龍の立場は宙ぶらりんになってしまいます。
一回は家督を譲られたと同然のポジションだったのに、明らかに格差をつけられたわけですから、怒りも相当湧いたでしょう。
そして弘治元年(1555年)。
仮病を装って孫四郎と喜平次をおびき出して謀殺して挙兵し、翌弘治二年(1556年)の4月20日、【長良川の戦い】で父の道三を討ち果たすわけです。

中央イラスト・小久ヒロ/斎藤義龍(左)と斎藤道三(右)/wikipediaより引用
戦いは一方的なものでした。
なにせ美濃の地元勢は義龍をプッシュしていたのだから当然でしょう。
実は義理堅い織田信長もわざわざ救援に向かって来て、結局、何もできず、そのまま帰路へとついています。
このとき信長自らが殿(しんがり)を買って、無事に全軍を尾張へ戻したという話があります。
以下の弊サイト連載『信長公記』に掲載されておりますので、よろしければご覧ください(次ページ末にもリンクございます)。
-
信長が殿(しんがり)を担った長良川! 道三敗死からの撤退戦~信長公記24話
続きを見る
信長の暗殺計画も実行していた
道三は斎藤義龍のことをバカ扱いしていたとされます。
しかし、実際はどうなのか。
領国経営や外交については、ときに義龍のほうが優れているフシもあります。
例えば、こんな感じですね。
内政、外交、謀略と精力的に動いていて、変わったところではこんな話があります。
永禄二年(1559年)のこと。
織田信長がお忍びで上洛した際、火縄銃を用いた刺客を義龍が送り込み、信長を暗殺しようとしたのです。
-
京都上洛の信長に向け義龍が放った刺客! どう対処した? 信長公記31話
続きを見る
このときは信長と機転の利く家臣によって見破られて失敗しましたが、記録上「日本初の狙撃」とされています。
なかなか大胆な試みですよね。
もしも義龍が凡将だったら、このような試みは実施されてなかったでしょう。
33才の若さで急死してしまった
翌1560年は【桶狭間の戦い】が起きた年。
つまり北には斎藤、東には今川がいて、この頃の信長が如何に危険な毎日だったか?ということを感じさせてくれますね。

毛利新助と服部小平太が襲いかかる(作:歌川豊宣)/wikipediaより引用
桶狭間でどうにか勝利を勝ち取った信長でしたが、斎藤義龍の防御はしっかり機能しており、美濃へはそう簡単に攻め込むことはできません。
しかし、いざという時に凄まじい豪運を発揮するのが信長。
このときも風が吹きました。
永禄4年(1561年)5月11日に斎藤義龍が33才の若さで急死してしまったのです。
マムシ(斎藤道三)という強敵を倒し、信長にプレッシャーを与え続け、美濃一国を切り盛りしていた人物としては、あまりに呆気ない最期と申しましょうか……。
そのせいか斎藤義龍については、いささか過小評価された見方が広がっている気がしてなりません。
2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では伊藤英明さんが演じ、注目度も大いに上がりましたので、今後の新史料発見や、研究の進展が楽しみな人物といえそうです。
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長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon)