大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目される秀吉と寧々の結婚。
当時は身分制度の厳しい社会であり、恋愛結婚はフィクションだけの世界と考える方が自然だが、史実ではどう結ばれたのか?
秀吉や寧々の置かれた環境を踏まえて、二人の婚姻状況を振り返ってみよう。
秀吉はいつから出世した?
二人の結婚時期は適切な記録がなく、推定されるのは永禄四年(1561年)から永禄八年(1565年)にかけて。
秀吉が寧々と結ばれるためには、その時点である程度、出世していなければならなかったであろう。
では当時の秀吉には、どんな武功があったか?
というと、そもそも「秀吉の名」がきちんとした史料に初めて登場するのが、ちょうど永禄八年(1565年)のことである。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いから約5年が経過したその年、織田家は美濃の斎藤家攻略に注力。
秀吉もその一員として参戦していたと思われるが、織田軍も最初からうまくいっていたわけじゃない。
まず桶狭間の戦い直後、余勢をかってその約2週間後に美濃へ攻め込むも、斎藤義龍の反撃に遭ってしまう。
『総見記』には、織田軍が永禄三年(1560年)に二度の攻撃を仕掛け、二度とも敗退したことが記されている。

斎藤義龍/wikimedia commons
「美濃のマムシ」こと斎藤道三の嫡男だけあって、義龍は強敵だった。
もしも、その身体が壮健だったら、織田家の美濃侵出は遅れ、東海エリアの有力大名程度で終わっていたかもしれない。
しかし、運は信長に味方した。
永禄四年(1561年)5月、斎藤義龍が突如、急死したのである。
斎藤方の武将を調略
義龍という壁が取り払われ、美濃制圧に本腰を入れた信長は「森部の戦い」や「十四条の戦い」、あるいは「新加納の戦い」など、次々に斎藤家へ攻撃を仕掛けていった。
が、思うように攻略は進まない。
事態が好転するのは永禄六年(1563年)に小牧山城へ本拠地を移して、その翌年に尾張国内の犬山城を攻略し、永禄八年(1565年)を迎えてからだった。
この年、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも話題になった大沢次郎左衛門(松尾諭さん)の「鵜沼城」を攻略したのである。
👉️詳細は別記事「大沢次郎左衛門」へ
尾張北部の犬山城から木曽川を渡ると、そのすぐ先にある鵜沼城(うぬまじょう)。

東美濃攻略への玄関口であり、織田軍はこの年に鵜沼城を落とすと、すぐ側にある猿啄城(さるばみじょう)や加治田城、あるいは堂洞城(どうほらじょう)の攻略にも成功している。
◆織田軍:美濃制圧までの道のり
永禄三年(1560年)桶狭間の戦い
永禄四年(1561年)当主の斎藤義龍が急死
永禄六年(1563年)本拠地を小牧山城へ移転
永禄八年(1565年)鵜沼城・猿啄城・加治田城・堂洞城を攻略 ※この年、秀吉が史料に初登場
永禄十年(1567年)稲葉山城を落として美濃制圧
鵜沼城の大沢次郎左衛門攻略について、『信長公記』では秀吉の手柄という記載はない。
『太閤記』では秀吉と秀長の調略としているが、信憑性には大きな疑問が残る。
ただし、何らかの武功を重ねていたのは間違いないだろう。
前述の通り“秀吉のきちんとした史料”というのが、この年、永禄八年(1565年)11月に出された領地安堵状(の副状)なのだ。
斎藤方の坪内利定という武将へ出された文書であり、その文面からは「秀吉が坪内氏の調略に成功し、信長が土地の支配を認める」という攻略の構図が浮かんでくる。
それと同時に、秀吉が国境エリアで所領を得ていた可能性が考えられ、寧々との結婚に向けての経済的余力を十分に備えていたこともうかがわせる。
では二人は、いつ結ばれたのか。
フィクションでお馴染みの“恋愛結婚”だったのか?
寧々13歳あるいは17歳
秀吉と寧々の結婚については、残念ながら史実と確定できる史料は残されていない。
いわば「諸説あり」の状態で、浅野家の『済美録』では、主に3つの説が記されている。
◆秀吉と寧々の結婚時期
①永禄四年(1561年)8月3日説 ※参考『浅野考譜』
②永禄八年(1565年)3月3日説 ※参考『木下家系図』
③永禄八年(1565年)8月3日説 ※参考『武家事紀』など
つまり永禄四年か永禄八年であり、どちらが適切なのか、まずは二人の年齢を照らし合わせてみよう。
永禄四年だと、秀吉が25歳で寧々は13歳、永禄八年だと秀吉が29歳で寧々が17歳。
当時の武家社会では13歳の女性でも結婚の事例はあるが、やはり17歳のほうが適齢期であり自然だろう。結婚を急がなければならない二人でもない。
それよりも最大の問題は、下世話な言い方になるが「カネ」であろう。
秀吉はどれだけ出世していたのか?

若き頃の秀吉を描いた月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』/wikimedia commons
恋愛結婚ではない?
前述の通り、確たる史料には永禄八年(1565年)に調略を成功させたとあり、身分は侍大将で、国境付近に所領を有していた可能性もある。
これが永禄四年だと、まだ足軽だったと考えられ、経済的余力は大きくなく、永禄八年のほうが可能性が高い。
と、これまで経済状況や年齢などに注目してきたが、そもそも二人の結婚を言い出したのは誰だったのか?
寧々に惚れた秀吉が求婚したのか。
それとも逆か。
フィクションでは「当時珍しい恋愛結婚」とも描かれがちだが、実際にそうした記録は残されてない。
それよりも、寧々の養父である浅野長勝が進めた話だとするのが自然だという。
信長から評価されている秀吉の能力と将来性に、長勝が目をつけたというわけで、実際に想像を絶する大出世を果たしたのだから、当人たちが最も驚いたのではなかろうか。
といっても浅野長勝は、秀吉が天下人となる前に亡くなっており、その姿を見ることはできず他人事ながら残念である。
むろん二人の婚儀には参加している。
そのとき主君の信長からはどんな祝儀が贈られていたのか、最後に見ておこう。
黄金10両と腰刀
前述の通り、寧々と秀吉の結婚時期は3つの説があり、それぞれに婚儀の内容も記されている。
まずは永禄四年(1561年)8月3日の場合から見てみよう。
場所は浅野長季(浅野長勝の兄か父)の家で、媒酌人は前田利家。
大河ドラマ『豊臣兄弟』では犬猿の仲のように描かれていた利家だが、史実の二人は古くからの友人であり媒酌人は納得のいく人選だ。
信長からの祝儀としては、腰刀が贈られている。

織田信長/wikimedia commons
次に永禄八年(1565年)3月3日では、婚儀の詳細はなく、信長の命により前田利長(おそらく利家の誤り)が二人を結婚させたとある。
やはり前田利家が関係しているのは、それぞれの妻も仲が良かったからであろう。
そして永禄八年(1565年)8月3日説では、婚礼の段取りを整えたのが浅野長季・柴田勝家・大橋重賢であり、場所は浅野長季の家だった。
信長からは黄金10両(約100万円)と腰刀が贈られている。
いずれの場合も、寧々と秀吉の婚姻を主君である織田信長が認めていることは間違いなく、寧々の年齢や秀吉の出世状況を考えると、やはり永禄八年(1565年)8月3日説が正しいように思える。
果たして大河ドラマ『豊臣兄弟』の小栗信長は、秀吉にどんな祝儀を贈るのか。
そこも一つの見どころとなるかもしれない。
参考書籍
黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(2025年5月 KADOKAWA)
呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(2025年11月 幻冬舎)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
