前哨戦や戦後処理も含め、一連の戦いをそう呼ぶことが多いのですが、近江(現・滋賀県長浜市)にあった「賤ヶ岳」という場所で決着がついたのが天正11年(1583年)4月21日でした。
それは一体どんな戦いだったのか?
色々と複雑な展開でしたので、理解重視でわかりやすく振り返ってみましょう。
なお、秀吉はこのころ羽柴秀吉を名乗っておりましたが、本サイトでは豊臣秀吉で統一させていただきます。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
秀吉の三法師vs勝家の信孝ではない
話は【本能寺の変】直後に遡ります。
【山崎の戦い】で明智光秀を討ち、織田信長の仇を取った秀吉は、織田家内での立場を急激に強くしました。

明智光秀/wikipediaより引用
他の織田家重臣たちにとって、成り上がり者にこんな行動をさせるのは面白くありません。
特に、遠方にいたとはいえ筆頭家老としての責任感と能力を持っていた柴田勝家は、歯噛みするどころの悔しさではなかったでしょう。
そんな中「今後の織田家をどうするか」という会議が行われます。
三谷幸喜さん映画の舞台にもなった【清洲会議】ですね。
ここで秀吉は
「血統の順からいって、織田信忠(信長の嫡男)様のご子息・三法師様に家督を継いでいただき、我々が守り立てよう」
と言い出した。
一方、勝家はこう。
「血統も大事だが、三法師様はまだ幼い。ここは年長の織田信孝(信長の三男)様に継いでいただき、三法師様が成長されてから改めて考えてはどうか」
というのが従来のよく知られた清洲会議ですが、実はこれ、後世のフィクション。
実際は以下の通りでした。
いわば織田家の兄弟二人で主導権を奪い合ったというのですね。

織田信雄(右)と織田信孝/wikipediaより引用
信孝に頼られた勝家は
かつては、しゃしゃり出る秀吉に柴田勝家がブチ切れ、直接対決へなだれ込む――そんなイメージが強い清洲会議でしたが、実際は織田信雄と織田信孝の名代を巡る争いだった。
では両者のどちらが勝ったのか?
というと引き分けと申しましょうか。
三法師を守るのは、信長からも信頼の厚かった堀秀政に任されました。
古参の信長側近である秀政であれば、柴田勝家や豊臣秀吉だけでなく丹羽長秀も池田恒興も納得のいく人事となります。
そして残された織田領を分配して一旦は落ち着こう!ということになったのですが……その状況に我慢できなくなったのが織田信孝でした。
信孝は自らが三法師を抱え込もうとして秀吉と揉め、武力で対抗するため柴田勝家に助力を求めたのです。
いわば信孝が導火線に火を付けたのですね。

猛将として知られた柴田勝家/Wikipediaより引用
こうなれば勝家としても、できるだけ味方を増やさねばならず、周辺地域の大名や織田家臣たちを自分になびかせようと動き始めます。
むろん秀吉とて黙っていられません。
いつしか構図は秀吉vs勝家という争いとなっていき、徐々に形勢は秀吉有利に傾いていきます。
やはり調略や外交活動では一枚上手だったのでしょう。
しかも何回かの小競り合い(物理)が起き、秀吉がいつまでも平穏なままで済ませるつもりがないことが明らかになります。
そして清洲会議から約半年後、ついに事態が本格的に動き始めました。
秀吉が、長浜城を攻めたのです。

長浜城(模擬天守)
長浜城は、清洲会議での交渉で勝家が手に入れた城であり、養子の柴田勝豊に守らせていました。
しかし秀吉にとっては元々が自分の城ですから、どこが攻めやすいかなんて重々承知の上だったことは間違いありません。
勝豊はあっけなく降伏。
他の養子と比べて日頃から冷遇されていた勝豊は、あまり粘る気がなかったのかもしれません。
時、折しも冬。
北陸の勝家がすぐには動けないことは十分に計算し尽くしての秀吉の行軍でした。
※続きは【次のページへ】をclick!