天正十八年(1590年)5月27日は、堀秀政が亡くなった日です。
織田信長の小姓から出世した武将で、戦が上手、外交もこなせる――例えば伊勢神宮の式年遷宮にまで関わる――など、なんでもこなせて人望も厚かったことで「名人久太郎」と称されます。
同じく織田家臣では内政でも軍事でも重宝された「米五郎左」こと丹羽長秀に相通じるものがありますね。
いったい久太郎こと堀秀政とはどんな人だったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
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小さい頃から頭も顔も良く、信長に寵愛された
堀秀政は天文二十二年(1553年)の生まれ。
毛利輝元と同年であり、歳の近い大名としては他に高山右近や上杉景勝などがいます。
戦国武将としては若い世代というか、戦国時代後半の生まれとなりますね。
主君の織田信長が1534年生まれであり、信長の嫡男・織田信忠が1555年 or 1557年の生まれとされているので、信長と秀政も親子のような年齢差でした。
それがなぜ信長の配下になったのか?

織田信長/wikipediaより引用
堀秀政の父は堀秀重という人で、斎藤道三に仕えており、後に織田家にやってきました。
秀政は小さい頃から顔も頭も良かったので、信長から寵愛されたといわれています。
実は最初は豊臣秀吉に仕えていたのですが
「その綺麗な子、ワシによこせ」(※イメージです)
ということで信長のもとへ移ったともいわれていて、えーと……その先はノーコメントで。
柴田や丹羽ら重臣からも頼られていた!?
キッカケはともかく、堀秀政が秀才だったことは間違いないでしょう。
信長の家臣になって三年目、16才で足利義昭の仮住まいとなった本圀寺の普請奉行を任されています。
年齢としても、当時の価値観では大人として扱われる頃合いです。
この寺では足利義昭が三好一派や斎藤龍興らに襲われた【本圀寺の変】が起きています。
信長が秀政に足利将軍と関わらせたのは、おそらく将来を見据えてのことでしょう。

足利義昭/wikipediaより引用
その期待通り堀秀政は順調に役人として成長し、信長直轄地の管理や、朱印状への添状を認めるなど、織田家エリートとしての経験を積んでいきました。
天正五年(1577年)には、加賀へ侵攻した
・柴田勝家
・滝川一益
・丹羽長秀
・武藤舜秀
らの連名で「現地の農民の協力を得られず難儀している」という手紙が、秀政宛てに送られています。
彼らは全員、秀政より一回りも二回りも年上で、当然、信長にも長く仕えています。
そういう人たちから「うまく行っていないから何とかしてほしい」という、ちょっとカッコ悪い内容の手紙を送られたことになりますよね。
恥や名誉に関する意識が非常に高かった時代に、これは地味ながら称賛に値します。
親子どころか孫のような年齢差の秀政が、織田家の重臣たちからの厚い信頼を得ていたということになりますので。
日頃から人当たりよく、信頼されていたということでしょう。
光秀の役を受けて長秀と家康の接待も
20代に入ってからは越前一向一揆や雑賀衆討伐などに参加し、武働きもするようになっていきます。
天正10年(1582年)6月には、丹羽長秀と共に徳川家康の接待役を務めていました。
やはり秀政が戦場でも工事でも外交でも役に立つ器用な人だったから「名人」と呼ばれるようになったのでしょうね。
「米五郎左」と呼ばれた丹羽長秀と、経緯も実情もよく似ていたと思われます。

丹羽長秀/wikipediaより引用
また、「堀家で”荷物を運ぶ役と荷物を手配する役、どちらがエライか”という論争になったとき、自ら荷物を担いで歩き、双方を納得させた」というような、部下の人心掌握に関するエピソードもいくつかあります。
まさに順風満帆の秀政。
そんな彼に、戦国史最大の大事件が降り掛かってくるのでした。
そう本能寺の変です。
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