1615年2月3日(慶長二十年1月6日)は、戦国武将の高山右近がフィリピンの首都・マニラで亡くなった日です。
この「右近」は通称から来たものなのですが、彼の実名に関する記録が乏しいため、実名同様に使われています。
まだまだグローバリズムのグの字もない時代に、彼はなぜマニラで最期を迎えたのか?
高山右近の生涯を振り返ってみましょう。

高山右近/wikipediaより引用
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三好家に仕えていた高山家
高山右近は天文二十一年(1552年※諸説あり)、摂津国(現・大阪府)の国人である高山友照の息子として生まれました。
国人とは「朝廷や幕府から正式な国主として認められてはいないものの、地元の有力者として勢力を持っていた人々」のことで、国衆とも言いますね。
一人一人の影響力は国を動かすほどではない。
されど、大名たちが支配あるいは協力、はたまた敵対する関係であり、国人の中には戦国大名へと発展するケースもいました。
有名な例では毛利元就とか真田昌幸・真田信幸(信之)・真田信繁(幸村)親子あたりも大名化した国人と言えるでしょう。
そんなわけで右近のトーチャン・高山友照も地元ではそれなりに名が知れており、近畿の有力大名である三好長慶に仕えていました。

三好長慶/wikipediaより引用
さらにその重臣・松永久秀からは大和国(現・奈良県)に城をもらっています。
本来の領地は摂津のままなので、飛び地のような感じですね。
しかし、永禄七年(1564年)7月に長慶が亡くなると、三好家では内紛やら裏切りやらのゴタゴタで急速に衰えていきました。
また、右近はこの年に両親とキリスト教の洗礼を受けています。
もしかすると教えに感銘を受けただけでなく、こうした時勢の変化も影響していたのかもしれません。
洗礼名は「ジュスト」といいます。
漢字だと「寿子」や「重出」と書くそうですが、どちらもなかなか難解な読み方ですね……。
和田惟政に反発して台頭した荒木村重
高山家の地元では、緊迫した状況が続きました。
特に永禄11年(1568年)は織田信長が足利義昭を奉じて上洛。

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用
義昭は十五代将軍に就任すると、まずは地固めということで摂津に自分の直臣である和田惟政(これまさ)を置きます。
幕府の権威が衰えたとはいえ、武家は”将軍様”の意向には従わないといけません。
そのため高山家も惟政に仕えることになりました。
しかし、血筋的に正しいとはいえ、ついこの前まで逃げ回っていた義昭の家臣にそうそう人心がなびくわけもなく、余計に混乱を招いてしまいます。
そしてついに惟政へ反感を持つ人々が挙兵しました。

和田惟政/wikipediaより引用
そのうちの一人が、右近にとっても大きく関係することになる荒木村重です。
村重は池田家というこれまた摂津の大名の家臣だったのですが、主家を乗っ取った上で信長と連絡を取り、
「摂津は私のものにしていいですよね」
「いいよ」
という感じでお墨付きをもらっていました。
当然のことながら村重は大喜びし、いろいろ頑張った結果、摂津のうち石山本願寺領(だいたい現大阪市)以外を手に入れました。
首の半分を斬られて生還→奇跡!?
和田家は当然、村重の台頭を鬱陶しく思っています。
しかしこの間に代替わりがあり、跡を継いだ和田惟長がまだ若年ということで、惟長の叔父さんが口を出してきます。
イヤな予感しかしませんよね。
案の定トラブルが起き、この叔父さんは殺されてしまいます。
惟長は次に信用できそうな人物として高山家を頼りましたが、和田家のお偉いさんはまたしてもこれが気に入らず、よからぬことを企み始めます。
そしてついに友照・右近親子の暗殺計画が実行されてしまったのです。
このとき、高山右近は”首の半分を斬られる”というとんでもない重傷を負いながらも、奇跡的に助かり、以降はより一層信仰を深めていくことになります。
まぁ、こんな目に遭って生き残れば、神の存在や奇跡を信じたくなるのも宜なるかなという気がしますね。
ちなみにこの傷、暗いところでドタバタ騒ぎになったせいで起きた同士討ち(未遂)だった可能性もあるようで……うーん。
また、右近は事前に村重へ
「私達、命狙われてるっぽいです」
と相談していたおかげで、この騒動の後、高山家はお咎めなしとなり、和田家がいた高槻城をもらうことができました。天正元年(1573年)3月のことです。
ちなみに惟長は、和田家の地元である甲賀(現・三重県)まで逃げ、そのままそこで亡くなったとか。
右近が家督を継いだ直後に村重が謀反
その後、高山右近の父・友照が
「キリスト教最高!」(超訳)
という政策を掲げ、領内の寺社が破壊されたりキリスト教以外の聖職者が迫害されたり、あまり穏やかでないことを始めてしまいます。
一神教の全てが悪いわけではありませんが、この極端さがいただけませんよね。
右近はこのころ高山家の当主になっています。
そして、それからすぐの天正六年(1578年)10月、大事件が起きます。
荒木村重が突如、信長に対して反乱を起こしたのです。

荒木村重/wikipediaより引用
なぜ村重は信長を裏切ったのか?
謀反の理由は未だに不明であるというのは、広く知られているとおり。
村重も一度は、信長からの説得に従って謀反を取りやめようとしました。
しかし、安土城に向かう途中で家臣から「信長が許すはずないじゃないですか」(意訳)とそそのかされて引き返し、その後は覚悟を決めてしまいます。
これには右近も驚き、新たに人質を差し出してまで村重の説得を試みましたが、聞き入れてもらえません。
「もはやこれまで!」
そう判断した信長は、ついに攻撃を決断。
右近たちの居城・高槻城は戦略上重要な地点だったため、まずここへ織田軍がやってきました。
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