宣教師・切支丹

日本初のキリシタン大名・大村純忠は過激すぎ!改宗に従わぬ者は

天正15年(1587年)5月18日は大村純忠が亡くなった日です。

戦国~安土桃山時代の大名で、三城城(さんじょうじょう・現在の長崎県)の城主でした。

日本初のキリシタン大名としても知られ、長崎港を開港したり、自身の名代として天正遣欧少年使節団に甥の千々石ミゲルを派遣したことでも有名です。

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とまぁ、学校の試験に出るレベルなら何ら問題のないキリシタン大名ですが、問題は彼の信仰です。

とにかく過激!の一言。

早速、彼の生い立ちから確認してまいりましょう。

 


洗礼して「ドン・バルトロメオ」

大村純忠は天文2年(1533年)、肥前の有力大名・有馬晴純の次男として生まれました。

母が大村氏の出身だったため、後に同家へ養子に出されるのですが、この両家の力関係が【有馬>大村】であったため、純忠は大村の跡取り候補(又八郎)を押さえて当主となり、又八郎は玉突きで他家に養子に出されてしまいます。

このため又八郎は純忠を恨みまくり。

純忠は、まさにアウェイのど真ん中で殿様をやることになったのです。

そんなプレッシャーに囲まれていた彼に転機が訪れたのは1561年、平戸で起きたポルトガル人死傷事件【宮の前事件】でした。

自国の人間が不憫にも殺され、危機を感じたポルトガルはこの地を避け、大村領の横瀬浦(よこせうら)に入港。

純忠にとっては、貿易の権益を得る願ってもないビッグチャンスです。

ここぞとばかりに1563年、「ドン・バルトロメオ」という洗礼名を授かり、領民にもキリスト教信仰を励行れいこうしていくのでした。

 


SATSUGAIしてDOREIにして

いや、そのキリスト教化が「励行」なんて優しい言葉じゃありません。

信者の数、最盛期には6万人にのぼるのですが、手法が何とも過激すぎるのです。

純忠の、刺激的な宗教活動を見て参りましょう。

・側室と離縁し、正室と結婚式を挙げ直した

・領内の寺社を破壊した

・先祖の墓も破壊した

・僧侶や神主をSATSUGAIした

・改宗しない領民もSATSUGAIした

・改宗しない領民を貿易の取引材料として外国に売っぱらった(つまり奴隷貿易)

汝、隣人の前に領民を愛して欲しい……。

察しのよい方なら、領内に6万人もの信者が膨れ上がった理由も見当がつくでしょう。

そう、デウスの教えが偉大だったから(棒読み)……ではなく、一言で言うと「恐怖政治」を強行したのです。

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