戦国時代に西洋から伝わったものと言えば?
合戦好きの皆様は【鉄砲】。
文化・風習面に興味を抱く方はおそらく【キリスト教】とお答えされるでしょう。
主に西国大名や織田信長の庇護で広まり、豊臣秀吉や徳川家康の治世に大きな影響を与えながら、江戸時代の鎖国政策と共に禁じられた西洋を主体とした宗教。
鉄砲伝来については先日の記事でご説明申し上げましたので、今回はキリスト教伝来について見ていきましょう。
宗教改革前に伝わったカトリックの教え
日本におけるキリスト教の歴史は、おおむね二つに分けることができます。
初めて伝来した戦国時代から幕末までの時期と、明治に入ってから改めて伝来し、現在に至るまでの時期です。
前者の時期におけるキリスト教信者を「キリシタン」と呼んでいることが多いですね。
明治時代以降はクリスチャンと呼ばれているような気がしますが、……この辺は明確な基準があるわけではないので、何となくのイメージでいいかと。
ちなみに、戦国時代におけるキリスト教は、おおむねカトリックをさします。
日本にキリスト教が伝わった時点では、ヨーロッパで宗教改革が始まっていないからです。
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江戸時代に入る頃、プロテスタントの国とカトリックの国の人が両方日本に接近してきてトラブルになるのですが、それはまた江戸時代に入ってからの題材とさせていただきます。
「キリシタン」はポルトガル語の"Cristao"からきています(実際は"a"の上に"~"がつきます)。
グーグル翻訳先生に読んでもらったところ、確かに「キリシタン」に聞こえました。
日本語では幾利紫丹・記利支丹・幾利支丹・切支丹・吉利支丹など、さまざまな当て字が作られています。
江戸時代に入ってからは、五代将軍・徳川綱吉の字とかぶる「吉利支丹」が使われなくなり、禁教令を後押しする意味もあって、幕府では「鬼」や「死」などのマイナスなイメージが強い字を当てるようになっていきました。
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他、キリスト教そのものについても、さまざまな呼び名がありました。
西方の国から伝わったから「天竺宗」、南蛮人が伝えたから「南蛮宗」、ポルトガル語でキリスト教の神をデウス("Deus")ということから「デウス(ダイウス)宗」などです。
では次に、伝来してから秀吉時代までのキリスト教に関する流れをみていきましょう。
早ければ中国(唐)を通じてやってきたなんて話も
鉄砲伝来と同じく、キリスト教が伝わった時期についてもさまざまな説があります。
2018年時点では、イエズス会の修道士であるフランシスコ・ザビエルが来日した天文十八年(1549年)説が最有力。
中国では4世紀に、シルクロードを通じて「ネストリウス派」というキリスト教の一宗派が伝来し、「景教」と呼ばれ、信者も多数いました。
そのため「この時期に中国から日本へ伝わった文化の中に、キリスト教もあっただろう」とする学者先生もおられるようです。……まぁ、証拠となるものが見つかっていないため、今のところはスルーされていますが。
もしかしたら、青森県などにある「キリストの墓」と呼ばれているものが、景教を伝えようとした人のお墓だった……なんてことはあるかもしれませんね。
8世紀には、渤海国の使者が船を出して東北に流れ着いていますから、似たようなことがそれ以前に起きた可能性がないとはいい切れません。
まあ、その辺のお話はロマンということで。
ザビエルの足跡については、以前に公開した彼の記事で詳しくお読みいただくとして、今回は「日本側から見たキリスト教」という視点でお話を進めていきたいと思います。
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布教を許した大きな理由3つ
キリスト教はそもそも「一神教」という時点で、当時の日本社会にとって全く異なる宗教でした。
しかし、キリスト教の布教を許した大名は決して少なくありません。
織田信長や有馬鎮貴(晴信)、大友義鎮(宗麟)、高山右近、小西行長などが、比較的布教に積極的だった大名として有名ですね。
これには、大きく分けて三つの理由があります。
◆西洋の文化を取り入れるため
南蛮趣味として知られるのが、我らが織田信長さん。
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また、地球儀や時計など、当時の最先端にあたる知識にも強く興味を示しました。
もっとも、ルイス・フロイスから時計を贈られたときは「壊れたときに修理できなさそうだから」という理由で返したそうなので、何でもかんでも受け入れたわけではなさそうです。
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その時の信長は至極残念そうだったとか。
(´・ω・`)←こんな顔してたんですかね。
◆仏教勢力への対抗策としての期待
この時代、延暦寺や本願寺を始めとした仏教の寺院が自治権&武力を持っていたことは、皆さんご存じでしょうか?
自衛のためとはいえ、特に本願寺や浄土真宗(一向宗)は、周辺の大名とトラブルになることも珍しくありません。
中には、本来清い身を保たねばならないはずの僧侶なのに、公然と女性を連れ込むなどの生臭ぶりを発揮していた者もいたほどです。
キリスト教の存在を知った大名たちは、新しい勢力にある程度力を持たせることによって、これらの仏教勢力を相対的に弱めようとしました。
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◆大名たち自身がキリシタンになった
いわゆる「キリシタン大名」と呼ばれている人たちです。
有馬鎮貴(有馬晴信)、大友義鎮(大友宗麟)、高山右近、小西行長など。
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自身が敬虔な信者となったために、家臣や領内にもキリスト教を勧めていました。
もっとも、大名家丸ごとキリシタンになったという家はほぼ皆無で、逆に家臣に反発を受けることが多かったようです。
神様を信じるのは心の内のことですので、彼らがキリスト教に傾倒した確実な理由はわかりません。
逆に、キリスト教の存在を知っても信仰しなかった大名のほうが、理由がハッキリしています。
戦国大名にとって都合の悪かった面
来日した宣教師たちは、キリスト教の教えに従って
「生命尊重」
「純潔」
「離婚禁止」
「一夫一婦制」
などを主に説きました。
どれもカトリックの大切な教義です。
このうち「一夫一婦制」は、戦国大名になかなか受け入れられませんでした。
理由は単純。子供の数ですね。
当時は乳幼児の致死率が非常に高い時代なので、大名としては跡継ぎのための子供が一人でも多くほしいところです。
しかし、一人の女性が産める子供の数は限られています。
そこで側室を多く抱えざるをえなくなるわけで、ここで制限されるとお家騒動などで困ったことになりがちです。
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大友宗麟のようにキリシタンであっても多くの側室を抱えた人もおりますし、まぁ、ただ単純に「女好きだったから」とされる大名もいました。
有名なのが豊臣秀吉です。
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豊臣秀吉は一時キリスト教に興味を持ち、宣教師に詳しく話を聞いたのですが、
「ワシ、妻一人なんて無理」(超訳)
という理由で入信しなかった……という話があります。
中国の雄・大内義隆も、キリスト教の布教を許しながら、自分は信仰しなかったタイプです。
彼の場合は、「ザビエルに衆道を非難され」て激怒したことがあるそうですから、その辺が理由なのかなぁと。わかりやすいですね。
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逆に、愛妻家で有名な細川幽斎(細川藤孝)や、その息子・細川忠興がキリシタンになっていないのが興味深いところです。
忠興の正室・明智玉子(細川ガラシャ・明智 光秀の娘)は敬虔なキリシタンとして有名です。
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が、忠興がそれを知って激怒したという話もありますので、ただ単に幽斎と忠興はキリスト教が気に食わなかったのかもしれません。
最大で15万人ものキリシタンがいた
一般人では、地域的な理由から、特に九州でキリシタンになる者が多く現れました。
当時はアメリカ大陸が発見されて間もない頃ですし、パナマ運河もスエズ運河もありませんので、ヨーロッパから宣教師が来るには、喜望峰とインド(もしくはそのどちらか)を経由しなくてはなりません。
となると、当時のヨーロッパ人から見て、日本の玄関口は九州周辺になります。
だからこそ九州を拠点にすべく、宣教師たちは特に力を入れていました。
布教区が設けられたり。
日本人司祭の養成のために専用の学校が作られたり。
一説には十五万人ものキリシタンがいたといいます。
キリスト教の伝来は、宣教師を通じて、ほかにも様々な西洋文化や科学・医術などをもたらしています。
信徒たちの中には、仏教で言うところの「現世利益」としてこういった技術に惹かれ、入信した者も多かったようです。
あるいはもっと単純に、
「日本の仏様も神様も助けてくれない。こうなったら、よその神様にすがるしかない」
と思った人もいたのかもしれません。
しかし、この裏で進んでいた宣教師たちのマズイ所業が、あるとき秀吉にバレ、ついに追放令が出されてしまうのです。
条件付きで活動OK 無理やり改宗させんなよ!
時期としては、天正十五年(1587年)4月に九州征伐が終わったあたりです。
住民を無理やり改宗させたり、寺社を破壊したり、日本人を奴隷として海外に売り飛ばしたり……と、よろしくないことが露見してしまいました。
特に奴隷の件については、そのまま放置しておくと、いずれ日本国内の働き手や兵がいなくなってしまいます。
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※ただし、奴隷売買は戦国時代にどの地域でも頻繁に行われ(主に合戦があるときに行われ)、秀吉自身も関連してないワケがなく、自身の天下統一が成ってから禁止したという見方が正しいように思えます(主に九州→マカオを経由して多くの日本人が売られておりました)
他にも、日本では農業や物流の担い手だった牛馬を、宣教師たちが食べてしまうというのも問題でした。
食文化の違いのせいですが、当時の日本社会で家畜の労働力が失われれば、効率の悪化や停滞は免れません。
為政者のトップである秀吉としては、これも許しがたいことです。
また、長崎が実質的にキリスト教関係者の自治領状態になってしまっていたのも問題でした。
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こういったさまざまな理由のため、秀吉は同年の1587年7月にバテレン追放令(伴天連追放令)を出しています。
この中で秀吉は、
「信仰の自由は認めるが、無理やり改宗させたり、日本人の売買や家畜を食べるのは絶対禁止!」
ということを記しております。
この時点での秀吉は「日本のルールを守り、信仰を強制しないのであれば、宣教師の活動は認めてもいい」という考えだったようです。
「日本はこんなに小さいんだぞ!」
秀吉がキリスト教を一気に危険視するようになったのは、文禄五年(1596年)のサン=フェリペ号事件からです。
秀吉はこの二年後に亡くなるので、最晩年と行っていい時期ですね。
サン=フェリペ号は、スペインからメキシコ(当時はヌエバ・エスパーニャ)へ向かっていたガレオン船でした。
新暦の1596年7月12日にルソン島を出港し、途中、暴風雨に遭ったため、ひとまず日本に避難しようと考えたようです。
そして10月17日に土佐の浦戸港付近に着き、地元の領主・長宗我部氏の小舟に誘導され、浦戸に停泊することになります。
サン=フェリペ号の司令官・ドン=マチアス=デ=ランデーチョは、日本の統治者である秀吉に乗組員の保護、船体修繕の許可などを求めるため、贈り物を持たせた使者を大坂に送りました。
正直、ここまでは通常の海難時によくある流れです。
しかし、秀吉の命で奉行として現地に派遣された増田長盛は、決して友好的な態度ではありませんでした。
サン=フェリペ号の積荷と乗組員の所持金を全て没収し、大坂に回送したのです。
ただの遭難船に対し、過敏ともいえる対応でした。
これは長盛が、ポルトガル人宣教師から
「スペイン人たちはメキシコや世界各地でやったように、日本を武力制圧しに来たに違いないですよ。船内にスペイン人宣教師がいたでしょう? キリスト教を広めて油断させるためですよ」
と聞かされていたからだ……といわれています。
お前らが言うんかーい!とツッコミたいところですが、この辺の事情がはっきり記録されていないので、真実は判然としません。
というか、他の理由や記録が見当たらないため、検証も難しいというのが正直なところです。
長盛が上記のようなことをサン=フェリペ号の乗員に告げ、保護や船の修理は認められないといったことを話すと、スペイン側はもちろん大激怒。
特に航海長の怒りようがすごかったようで、わざわざ世界地図を出してきて
「スペインは広大な国で、日本はこんなに小さいんだぞ!」
とのたまったとか。
現在のスペインも日本より広い国ですが、当時はメキシコを始め、あっちこっちに植民地がありましたので、さらに広大な領土を持っていました。
航海長も、そこに誇りを持っていたのでしょう。
しかしこの場合、その後に
「だから、スペインは日本を叩きのめすなんて簡単なんだぞ」
と脅しにかかるのか、
それとも
「既に広大な領地を持っているスペインが、こんなちっぽけな国を得ても大して得がない」
と続けるのかが重要になります。
残念ながらそこまで記録がないんです……が、いずれにせよ、長盛は、スペイン側の反応に対してよほど腹に据えかねたようです。
なぜなら、長盛がこの件に関する報告をした直後、秀吉は直ちにキリスト教への禁教令を再度発令。
その11日後には、京都や大坂にいたフランシスコ会の宣教師・修道士合計6人と、キリシタン20人を長崎で処刑しているからです。
現在では【二十六聖人の殉教】と呼ばれている出来事です。
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方針がキッチリ定まらなかった秀吉の治世
このとき処刑されたフランシスコ会の人の中にはポルトガル人もいました。
当時の日本人にとってスペイン人とポルトガル人の見た目がつかなかったか、よほどテキトーにしょっぴいたか……。
そもそも罰則を与えるなら、サン=フェリペ号事件の乗組員を処刑するのが妥当ですが、その前から日本にいた宣教師や一般人のキリシタンを処刑するというのがよくわかりません。
しかも、この後、サン=フェリペ号には修繕許可が出ていて、1597年4月に浦戸を出港し、マニラに帰っています。
一説には、「最初に日本にやってきたイエズス会(ザビエルが所属していた修道会)よりも、フランシスコ会のほうが攻撃的な活動をしていたため、抑止として処刑した」ともいわれていますが……。
謎が多すぎて、この二つの事件については推理すら難しいというのが正直なところです。
大坂の陣で大坂城が燃えたときに、記録が失われてしまったのかもしれません。
結局、キリスト教について秀吉の存命中には方針が定まりません。
江戸幕府が始まってからのいくつかの事件により、国としては表向き拒絶されていきます。
江戸時代以降のキリスト教については、後日あらためて見てみましょう。
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【参考】
国史大辞典
日本のキリスト教史/wikipedia

























