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【キリスト教伝来】
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戦国大名にとって都合の悪かった面
来日した宣教師たちは、キリスト教の教えに従って
「生命尊重」
「純潔」
「離婚禁止」
「一夫一婦制」
などを主に説きました。
どれもカトリックの大切な教義です。
このうち「一夫一婦制」は、戦国大名になかなか受け入れられませんでした。
理由は単純。子供の数ですね。
当時は乳幼児の致死率が非常に高い時代なので、大名としては跡継ぎのための子供が一人でも多くほしいところです。
しかし、一人の女性が産める子供の数は限られています。
そこで側室を多く抱えざるをえなくなるわけで、ここで制限されるとお家騒動などで困ったことになりがちです。
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大友宗麟のようにキリシタンであっても多くの側室を抱えた人もおりますし、まぁ、ただ単純に「女好きだったから」とされる大名もいました。
有名なのが豊臣秀吉です。
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豊臣秀吉は一時キリスト教に興味を持ち、宣教師に詳しく話を聞いたのですが、
「ワシ、妻一人なんて無理」(超訳)
という理由で入信しなかった……という話があります。
中国の雄・大内義隆も、キリスト教の布教を許しながら、自分は信仰しなかったタイプです。
彼の場合は、「ザビエルに衆道を非難され」て激怒したことがあるそうですから、その辺が理由なのかなぁと。わかりやすいですね。
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逆に、愛妻家で有名な細川幽斎(細川藤孝)や、その息子・細川忠興がキリシタンになっていないのが興味深いところです。
忠興の正室・明智玉子(細川ガラシャ・明智光秀の娘)は敬虔なキリシタンとして有名です。
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が、忠興がそれを知って激怒したという話もありますので、ただ単に幽斎と忠興はキリスト教が気に食わなかったのかもしれません。
最大で15万人ものキリシタンがいた
一般人では、地域的な理由から、特に九州でキリシタンになる者が多く現れました。
当時はアメリカ大陸が発見されて間もない頃ですし、パナマ運河もスエズ運河もありませんので、ヨーロッパから宣教師が来るには、喜望峰とインド(もしくはそのどちらか)を経由しなくてはなりません。
となると、当時のヨーロッパ人から見て、日本の玄関口は九州周辺になります。
だからこそ九州を拠点にすべく、宣教師たちは特に力を入れていました。
布教区が設けられたり。
日本人司祭の養成のために専用の学校が作られたり。
一説には十五万人ものキリシタンがいたといいます。
キリスト教の伝来は、宣教師を通じて、ほかにも様々な西洋文化や科学・医術などをもたらしています。
信徒たちの中には、仏教で言うところの「現世利益」としてこういった技術に惹かれ、入信した者も多かったようです。
あるいはもっと単純に、
「日本の仏様も神様も助けてくれない。こうなったら、よその神様にすがるしかない」
と思った人もいたのかもしれません。
しかし、この裏で進んでいた宣教師たちのマズイ所業が、あるとき秀吉にバレ、ついに追放令が出されてしまうのです。
条件付きで活動OK 無理やり改宗させんなよ!
時期としては、天正十五年(1587年)4月に九州征伐が終わったあたりです。
住民を無理やり改宗させたり、寺社を破壊したり、日本人を奴隷として海外に売り飛ばしたり……と、よろしくないことが露見してしまいました。
特に奴隷の件については、そのまま放置しておくと、いずれ日本国内の働き手や兵がいなくなってしまいます。
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※ただし、奴隷売買は戦国時代にどの地域でも頻繁に行われ(主に合戦があるときに行われ)、秀吉自身も関連してないワケがなく、自身の天下統一が成ってから禁止したという見方が正しいように思えます(主に九州→マカオを経由して多くの日本人が売られておりました)
他にも、日本では農業や物流の担い手だった牛馬を、宣教師たちが食べてしまうというのも問題でした。
食文化の違いのせいですが、当時の日本社会で家畜の労働力が失われれば、効率の悪化や停滞は免れません。
為政者のトップである秀吉としては、これも許しがたいことです。
また、長崎が実質的にキリスト教関係者の自治領状態になってしまっていたのも問題でした。
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こういったさまざまな理由のため、秀吉は同年の1587年7月にバテレン追放令(伴天連追放令)を出しています。
この中で秀吉は、
「信仰の自由は認めるが、無理やり改宗させたり、日本人の売買や家畜を食べるのは絶対禁止!」
ということを記しております。
この時点での秀吉は「日本のルールを守り、信仰を強制しないのであれば、宣教師の活動は認めてもいい」という考えだったようです。
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