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【キリスト教伝来】
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「日本はこんなに小さいんだぞ!」
秀吉がキリスト教を一気に危険視するようになったのは、文禄五年(1596年)のサン=フェリペ号事件からです。
秀吉はこの二年後に亡くなるので、最晩年と行っていい時期ですね。
サン=フェリペ号は、スペインからメキシコ(当時はヌエバ・エスパーニャ)へ向かっていたガレオン船でした。
新暦の1596年7月12日にルソン島を出港し、途中、暴風雨に遭ったため、ひとまず日本に避難しようと考えたようです。
そして10月17日に土佐の浦戸港付近に着き、地元の領主・長宗我部氏の小舟に誘導され、浦戸に停泊することになります。
サン=フェリペ号の司令官・ドン=マチアス=デ=ランデーチョは、日本の統治者である秀吉に乗組員の保護、船体修繕の許可などを求めるため、贈り物を持たせた使者を大坂に送りました。
正直、ここまでは通常の海難時によくある流れです。
しかし、秀吉の命で奉行として現地に派遣された増田長盛は、決して友好的な態度ではありませんでした。
サン=フェリペ号の積荷と乗組員の所持金を全て没収し、大坂に回送したのです。
ただの遭難船に対し、過敏ともいえる対応でした。
これは長盛が、ポルトガル人宣教師から
「スペイン人たちはメキシコや世界各地でやったように、日本を武力制圧しに来たに違いないですよ。船内にスペイン人宣教師がいたでしょう? キリスト教を広めて油断させるためですよ」
と聞かされていたからだ……といわれています。
お前らが言うんかーい!とツッコミたいところですが、この辺の事情がはっきり記録されていないので、真実は判然としません。
というか、他の理由や記録が見当たらないため、検証も難しいというのが正直なところです。
長盛が上記のようなことをサン=フェリペ号の乗員に告げ、保護や船の修理は認められないといったことを話すと、スペイン側はもちろん大激怒。
特に航海長の怒りようがすごかったようで、わざわざ世界地図を出してきて
「スペインは広大な国で、日本はこんなに小さいんだぞ!」
とのたまったとか。
現在のスペインも日本より広い国ですが、当時はメキシコを始め、あっちこっちに植民地がありましたので、さらに広大な領土を持っていました。
航海長も、そこに誇りを持っていたのでしょう。
しかしこの場合、その後に
「だから、スペインは日本を叩きのめすなんて簡単なんだぞ」
と脅しにかかるのか、
それとも
「既に広大な領地を持っているスペインが、こんなちっぽけな国を得ても大して得がない」
と続けるのかが重要になります。
残念ながらそこまで記録がないんです……が、いずれにせよ、長盛は、スペイン側の反応に対してよほど腹に据えかねたようです。
なぜなら、長盛がこの件に関する報告をした直後、秀吉は直ちにキリスト教への禁教令を再度発令。
その11日後には、京都や大坂にいたフランシスコ会の宣教師・修道士合計6人と、キリシタン20人を長崎で処刑しているからです。
現在では【二十六聖人の殉教】と呼ばれている出来事です。
日本人奴隷の輸出は許さん!サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人
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方針がキッチリ定まらなかった秀吉の治世
このとき処刑されたフランシスコ会の人の中にはポルトガル人もいました。
当時の日本人にとってスペイン人とポルトガル人の見た目がつかなかったか、よほどテキトーにしょっぴいたか……。
そもそも罰則を与えるなら、サン=フェリペ号事件の乗組員を処刑するのが妥当ですが、その前から日本にいた宣教師や一般人のキリシタンを処刑するというのがよくわかりません。
しかも、この後、サン=フェリペ号には修繕許可が出ていて、1597年4月に浦戸を出港し、マニラに帰っています。
一説には、「最初に日本にやってきたイエズス会(ザビエルが所属していた修道会)よりも、フランシスコ会のほうが攻撃的な活動をしていたため、抑止として処刑した」ともいわれていますが……。
謎が多すぎて、この二つの事件については推理すら難しいというのが正直なところです。
大坂の陣で大坂城が燃えたときに、記録が失われてしまったのかもしれません。
結局、キリスト教について秀吉の存命中には方針が定まりません。
江戸幕府が始まってからのいくつかの事件により、国としては表向き拒絶されていきます。
江戸時代以降のキリスト教については、後日あらためて見てみましょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
日本のキリスト教史/wikipedia