慶長十七年(1612年)5月6日は、九州のキリシタン大名・有馬晴信が処刑された日です。
この方の生涯を一言でまとめるとしたら、
「家を守るために生き、死んだ」
というところでしょうか。
大名であれば誰しも家のために生きるわけですが、有馬晴信の場合は家を守るためにやったこととその末路があまりに切なくて……その生涯を振り返ってみましょう。

有馬晴信の木像(台雲寺所蔵)/wikipediaより引用
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兄が亡くなりわずか4才で家を継ぐ
有馬晴信は永禄十年(1567年)生まれ。
伊達政宗や立花宗茂、真田幸村(異説あり)と同年であり、いわば戦国時代の終焉を飾る人々が現れた年でした。
現代ならば【花の67年組】ってところでしょうか。
次男だった晴信は、兄が早逝してしまったため、わずか4歳で家督を継承することになります。
当初は父・有馬義貞が元気だったので、無事に成長していきました。
よくある「兄弟ゲンカの果てに弟が家督を継いだ」というパターンではなかったのは幸運だったでしょう。
しかし、成長後の晴信は生涯「何かと何かの板挟み」という状況に置かれて悩むことになります。
最初の板挟みは、龍造寺家とイエズス会でした。
龍造寺と島津、イエズス会に囲まれて
有馬家は龍造寺家と領地を接していました。
ただし、単独で対抗できるほどの力はなく、西洋の武器と資金的な援助を手に入れるためイエズス会に接近します。
そのためには有馬晴信自身がキリシタンになることが不可欠でした。
天正八年(1580年)春、晴信は領内の口之津に来航していたイエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノから洗礼を受け、プロタジオという洗礼名を授かります。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ/wikipediaより引用
さらにはキリスト教側の要望で、領内の寺社仏閣を破壊したり、そこにいた者たちにキリシタンへの改宗または国外退去を迫ったり。
かなり厳しい取締を実行すると、これを喜んだイエズス会は、口之津にガンガン南蛮船を入港させ、教会や初等学校(セミナリヨ)を建てていきました。
天正十年(1580年)にヴァリニャーノが計画した【天正遣欧使節】には、晴信の従兄弟にあたる千々石ミゲルを名代として参加させるほどです。
そして晴信は次に島津家を頼ります。
しかし、島津など頼って大丈夫なのか? そう直感的に思う方も少なくないでしょう。
なんせ薩摩や大隅を支配した島津は、日向や肥後へと九州を制圧するような拡大路線を続けており、仮に龍造寺家を倒したら次に有馬が狙われる危険性はグッと高まるはずです。
それなのになぜ晴信は島津などを頼ったのか。警戒心が足らなかったか、あるいはそれだけ切羽詰まっていたのか。
【沖田畷の戦い(1584年)】で島津家と共に龍造寺家に勝利――と、そこまではよかったのです。
しかし案の定、有馬家はイエズス会と島津家の板挟みになってしまいました。
沖田畷で勝った後、晴信はイエズス会に長崎・浦上の地を与えているくらいですから、心情的にはイエズス会のほうを信じたかったのかもしれません。
また、海に面した立地を利用して中国とも交易を行い、かなりの利益をあげていたようです。
豊かな土地ではないだけに、商売で国を養っていこうとしたのでしょう。
小西行長を頼り、豊臣政権では立場をキープするも
かくして島津家との対立が避けられなくなった有馬晴信。

小西行長/Wikipediaより引用
ご存知、豊臣政権で重用されている小西ですから、そのツテで秀吉の傘下入りが認められれば島津からの圧力に対抗することもできます。
あるいは秀吉の九州征伐に協力することで、島津を潰すことすら可能です。
結果は上々。
有馬晴信は天正十五年(1585年)、高来郡4万石を安堵されました。
しかしタダでは済まず、交易に欠かせなかった浦上の地は秀吉の直轄地として取り上げられ、宣教師やキリシタンは晴信の居城である日野江城周辺に逃れたようです。
それでも早い段階で秀吉に従ったのは大正解だったでしょう。
天正十六年(1586年)からその翌年にかけ、強大な豊臣軍が九州征伐にやってきた結果、島津軍は完全に敗北。
豊臣軍がやってくる前は九州の半分以上を制圧していたのに、敗戦の結果、薩摩と大隅、日向の一部に押し込まれてしまうのです。
時計の針を一気に進めて【文禄・慶長の役】では、小西行長と共に朝鮮に出陣、軍功を立てています。
秀吉政権における有馬晴信の立ち位置は、揺るぎないかに見えました。
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