有馬晴信

有馬晴信の木像(台雲寺所蔵)/wikipediaより引用

宣教師・切支丹

肥前の戦国大名・有馬晴信の生涯~詐欺師に騙されたキリシタン大名の最期は切腹?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
有馬晴信
をクリックお願いします。

 


関ヶ原では東軍につく

豊臣政権に対しては、島津の救って貰った恩と、浦上の地を取られたシコリの両方があった有馬晴信

秀吉による無謀な【文禄・慶長の役】を経て、その後、政権が崩壊していく過程で、豊臣への恩顧ではなく時代の趨勢を読んでゆくようになります。

慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍方についたのです。

関ヶ原合戦図屏風/wikipediaより引用

関ヶ原の戦場へは出向いていません。

地元で西軍方を攻撃することになると、驚くことに旧知の仲で同じキリシタンである小西行長の領地へ攻め込みました。

一見、不誠実にも見えますが、生き残りを賭けた場面では仕方ありません。

そして西軍の敗戦後に小西行長が処刑されると、晴信はますますキリシタンたちの心の拠り所となっていきます。

なんせこの時期にも、本人がキリスト教に傾倒するあまりに寺社を破壊し、そこに使われていた石などを城の階段に使ったらしき遺構があるなど、かなり強烈なことをしていたことが浮かんできます。

確かに、寺社の破壊は、あちこちのキリシタン大名が行っていたものです。

しかし、お寺にあった石をわざわざ階段にして踏ませるというのは、なんだか偏執的な思いも感じさせますね。

 


ポルトガル拠点のマカオで殺傷事件勃発

江戸時代に入ると、キリシタンへの視線は厳しくなるばかり。その矢先に、海外でシャレにならない事件が起こります。

慶長十三年(1608年)有馬晴信は、徳川家康の命により、伽羅(きゃら)という香木を購入するためチャンパ(現代のベトナム南部にあった国)に船を派遣しました。

この船がマカオに寄港した際、船員がドンパチやらかし、多数の日本人死傷者が出てしまったのです。

当時のマカオはポルトガル領で、責任者はアンドレ・ペッソアというポルトガル人でした。

いくら同じキリシタンとはいえ、晴信も船員を殺されて黙ってはいられません。

そこで家康に許可を取り付け、長崎まで事件の経緯を説明しに来ていたペッソアとポルトガル商船ノッサ=セニョーラ=ダ=グラーサ(旧名マードレ=デ=デウス)を砲撃。

ペッソアは船員を逃がした後に自ら船を爆破し、海の藻屑となりました。

『南蛮屏風』(狩野内膳筆)に描かれたポルトガル船/wikipediaより引用

結果、イエズス会との関係が悪化します。

イエズス会からすれば「今まで俺たちが助けてやったのに!」という気分になるのも当たり前の話かもしれません。

マカオで先に暴力を振るったのがどちらなのか不明ですが……。

さらにここで、幕府から来ていた目付役(大名などが不審な動きをしないか見張る人)の岡本大八という人物が晴信に囁きます。

「家康様は西洋船を沈めたことをいたくお喜びです。今ならこの功績でもって、龍造寺家に奪われていた土地を取り戻せるかもしれませんよ」

破滅に繋がる甘言でした。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-宣教師・切支丹
-