大河ドラマ『麒麟がくる』でお茶の間に鮮烈なインパクトを与えた細川藤孝(キャスト:眞島秀和さん)。
明智光秀(長谷川博己さん)と対峙して、刀を構えたシーンは特に印象的でしたが、この藤孝、実は武道だけでなく、
・政治
・外交
・学問
・芸術
・和歌
・料理
と多方面で才能を発揮した方でも知られます。
そんな藤孝のもとに生まれたのが、強烈キャラの長男・細川忠興(ただおき)です。
父に負けず劣らずの才に恵まれ、当代きっての文化人武将として信長・秀吉・家康らに重宝されながら、同時に忠興は、妻・ガラシャに対する「異常愛」でも戦国ファンには知られます。
異常愛とは何のことか?
いったい忠興はどんな武将だったのか?
正保2年(1646年)12月2日が命日、細川忠興の生涯を振り返ってみましょう。
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仲睦まじい両親のもとに生まれた細川忠興
細川忠興は永禄6年(1563年)11月13日に生誕。
幼名は熊千代でした。
前述の通り、父は戦国屈指の文化人として知られる細川藤孝(細川幽斎)で、母は、津軽氏の軍師として活躍した伝説を持つ沼田光兼の娘です。
両親は幼馴染の間柄で夫婦仲も良好だったと伝わり、藤孝には側室を娶った形跡がありません。
忠興出生時の藤孝は、割と平穏な時期を過ごしておりました。
この頃は織田信長と接近する前であり、形式上は足利将軍家の家臣です。
当時の将軍は第13代・足利義輝。
それまで没落一辺倒だった足利家に再興の兆しが見え始めていた頃です。
苦労続きだった藤孝の生涯でも、かなりの充実期だったと言えましょう。
しかし……。
永禄8年(1565年)5月19日。
細川親子の運命を一変させる事件が突如勃発しました。
彼らが付き従い、足利家再興の旗印でもあった将軍義輝が暗殺されてしまったのです。
【永禄の変】です。
3歳だった忠興を置き去りにして父が都を出る
永禄の変とは、三好義継と松永久通(久秀の息子)らが中心となって起こした事件で、足利義輝が壮絶な死を遂げたことで知られます。
ずいぶんと暴力的だな……と思われるかもしれませんが、実際のところは「御所巻(ごしょまき)」と呼ばれる「デモ」のような行為が、昂じて殺害へと発展したという見方もあります。
要は、暗殺目的ではなかった可能性も考えられる。
いずれにせよ将軍暗殺という事件は、細川家の生活を激変させました。
当時まだ3歳だった忠興を置き去りにして藤孝が都を飛び出していったのです。
大丈夫なのか……。
三好一族辺りに狙われたりはしないのか?
と、そんな心配もありますが、このとき忠興の乳母を務めていた人物が、非常に機転の利く女性だったようで、熊千代の名を宗八と改名した上で町屋に潜伏、忠興の安全を確保しました。
そして約3年後――。
藤孝が第15代将軍・足利義昭を擁立して京都に帰還する永禄11年(1568年)まで、潜伏生活は続きました。
息子のいる京都へ戻った藤孝は、その後、義昭の協力者として信長との関係を深めていきます。
ただし、その役割は決して容易ではありませんでした
主君義昭と信長は次第に対立を深めていき、藤孝も身の振り方に悩まされるようになるのです。
共に将軍と信長の間に入っていたとされる明智光秀とはこのころから親しく付き合うようになったとも目されています。
両者の間で「義昭か、信長か」といった話も当然あったことでしょう。
元亀4年(1573年)に藤孝は義昭からの離反を決意、信長家臣として織田家への従属を表明しました。
同時期に、光秀も仕官先を織田家一本に絞ったとされています。
父に従い信長の小姓として出世コースへ
藤孝の決断により、忠興を含む細川家全体が織田軍に組み込まれました。
これを機に彼らは細川から長岡へ姓を変更。
後に豊臣秀吉に仕えるまで長岡姓を名乗りますが、改姓後、忠興が初めて史料に登場するまでは若干の時間を要します。
それは天正4年(1576年)頃のことでした。
忠興は15歳になり初陣を経験すると、父に付き従う形で17歳までに実に17回もの戦闘を重ね、全て勝利したと本人が述懐しています。
この発言は誇張でもない事実でしょう。証拠の一つに天正5年(1577年)の松永久秀攻めに関して【信長直筆の感状】も受け取っています。
こうして早くから頭角を現しはじめた忠興は天正6年(1578年)、信長の小姓に取り立てられました。
いわば「出世コース」であり、例えば真田昌幸あたりも武田信玄の小姓に抜擢されたことで知られます。
忠興も早い時期から将来の成功が保証されていたといえるでしょう。
史料に残されているわけではありませんが、新参者の藤孝にとって息子の活躍は御家を残す意味でも重要で、親としても喜ばしい流れだったはずです。
天正7年(1578年)には元服し、信長から偏諱(へんき)され、名を「忠興」と改めています。
また、同年に信長の命により明智光秀の娘である明智玉子(細川ガラシャ)を正室として迎え、本人はこれ以上無い充実期に突入していました。
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この後も父に付き従う形で織田軍の主要な戦に参加し、信長からも変わらぬ評価を受け続けます。
文武両道、かつ芸術分野でも朝廷における立場も明るかった藤孝は織田家臣の中でも重臣とみなされるようになり、親子ともども順調に成長を遂げていくのでした。
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