天正十四年(1586年)11月11日は、後に熊本藩主となる細川忠利(ただとし)が誕生した日です。
父は細川忠興。
つまり忠利は、忠興の父である細川藤孝(細川幽斎)の孫になりますが、それだけではなく母が細川ガラシャ=明智玉ですので、明智光秀の孫にもなるんですね。
父:忠興(細川藤孝の息子)
母:ガラシャ(明智光秀の娘)
※以下は二人の生涯まとめ記事となります
細川藤孝(幽斎)は光秀の盟友だった~本能寺後の戦乱をどう生き延びたのか
続きを見る
史実の明智光秀は本当にドラマのような生涯を駆け抜けたのか?
続きを見る
残念ながら大河ドラマ『麒麟がくる』での出演はなく、しかも忠利は長男ではなく三男。
普通なら部屋住み(だいたい穀潰しと同義)の身になりそうな生まれ順なのに、父・忠興の跡をついで藩主になりました。
そこにはやっぱり、忠興のいろんな意向が影響しており……忠利が生まれた時の話から振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
嫁が逃げたからオマエは廃嫡&カンドーな!
忠利が生まれたのは、本能寺の変(1582年)から四年後の天正14年(1586年)ことでした。
あんな事件があった後も父ちゃんと母ちゃんは……というのはさておき、このころ豊臣秀吉はまだ全国を統一しておらず、忠利の成長に影響を与えるきっかけとなります。
忠利は生まれつき体が弱く、母である玉子(細川ガラシャ)を大変心配させていました。
そして忠興が秀吉に従い、九州征伐のため留守にすると、玉子はキリスト教の修道士のもとへ説法を聞きに行き、以後強く影響を受けていきます。
古今東西、病気に立ち向かうために信仰にすがる人の例は数知れません。
玉子もまた、健康のために忠利へキリスト教の洗礼を受けさせたともいわれています。
はっきりとはわかりませんが、少なくとも他の大名の子息よりキリスト教に関する知識はあったことでしょう。
忠利の運命が大きく変わるのは、長兄・細川忠隆と次兄・細川興秋(おきあき)が関ヶ原の戦い以降に立場を悪くしてからです。
忠隆自身は忠興とともに東軍に属し、戦功も挙げていたのですが、玉子と共に大坂の屋敷にいた忠隆の妻・千世が、玉子の自害に際して一人だけ逃げたことを、忠興から咎められたのです。
玉子自身がそうするように指示をしたといわれているので、むしろ姑の命に従った嫁ということで正しいことのはずなのですが……いかんせん、相手がエクストリーム愛妻家ですから理論は通じません。
忠隆は廃嫡・勘当されて、細川家から追い出されてしまいます。どんだけ……。
次兄は養子になったからアウト
次兄の興秋は「前に興元(忠興の弟)の養子だったから」という理由で、跡継ぎの順番を弟にすっ飛ばされました。
彼もガラシャの子供であります。
が、忠興があっさり「忠隆を廃嫡したから、俺の跡継ぎは忠利な!!」(※イメージです)と決めてしまったのです。
徳川家康の息子・結城秀康だって、別に無能ではなかったのに「秀吉の養子だったから」という理由で二代将軍になれなかったという見方があります(そもそも母の出自が低いからとも)。
一方、当時の忠利は江戸で人質になっておりました。
そこから世継ぎになるということが決まり、代わりに興秋と交代。
しかし、納得出来ない興秋は、江戸に向かう途中、自ら細川家から出ていき、頭を丸めて仏門に入ってしまいます。
忠隆・興秋ともに祖父の細川藤孝(細川幽斎)を頼っているので、結局「細川家」からは出て行っていないような気もするんですけど。
秀吉を知らないほうが徳川の治世に合う
そんな感じで突如、世継ぎになってしまった忠利も随分困ったようです。
ただし、名門・細川家の子息ですから、いざとなればうろたえるようなこともありません。
密かに祖父や兄の元に手紙を送り、何かと気遣いを見せ、兄たちと直接ケンカをすることもなかった様子。
こうなると、なんで忠興だけエキセントリックな一面を見せるのか不思議になってきますが、まあそこは妻への偏愛のなせる業なんでしょう……よくわかりませんが。
真面目な話をしますと「秀吉の時代」を覚えている長男・次男より、ほとんど知らない三男のほうが「徳川の時代」にふさわしいと判断した可能性もあります。
実際、人質だった頃に旗本たちと知り合い、その後のやり取りにも役立ったそうですので。
また、忠利は人並み外れて律儀な人でもあったので、そのほうが家康に目をつけられず、家を残せるという判断があったのかもしれません。
忠隆と興秋という二人の息子も出来が悪かったワケではなかったので、たぶんこの辺が理由だと思われます。
本能寺の変の時にも、先々を考えて縁戚である光秀に加担しなかった忠興ですし、本当にただのえこひいきだったら、さすがに藤孝も止めているでしょう。
清正の息子が改易され熊本へ
細川家を突如担うことになった忠利は、真面目さでもって、家と藩を支えていきます。
体が弱い人がこのような立場になったら、一気に体調が悪くなる気もしますので、おそらく神経は細くなかったんでしょうね。
22歳のときに徳川秀忠の養女・千代姫と結婚して子供にも恵まれ、34歳で忠興から小倉藩を譲られて、二代藩主に就任。
その後、熊本藩の加藤忠広(加藤清正の息子)が改易されたため、熊本へ国替えします。
加藤家が、イチャモンに見えなくもない改易を徳川幕府から告げられたので、次の忠利はかなり気を使っていたようです。
清正の位牌を掲げて熊本城に入り、清正の菩提寺に向かって手を合わせたとか。
熊本城修繕の際にも、加藤家の桔梗紋が入った瓦をそのまま残しています。
また、忠利は本丸には住まず、すぐ近くの花畑屋敷というところを国元での住まいにしています。
清正が熊本城を建てるときに使っていた屋敷で、仮住まいとは思えないくらい庭を作りこんでいたのだとか。
忠利は、清正に対する遠慮と尊敬、そして庭を好んでここに住んだのでしょう。
この辺がどれだけ効果があったかはわかりませんが、忠利の律儀さが伺えますね。
※続きは【次のページへ】をclick!