そんなコンセプトで過去の歴史人に注目する本連載「日本史ワル査定」ですが、なぜかというか、やはりというか、登場人物が室町時代に集中しており、今回は細川政元さんがターゲットです。
室町幕府の守護大名で永正4年(1507年)6月23日が命日。
彼も【応仁の乱】絡みですね。
では早速、その事績を見てみましょう!
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京都の大乱は収束させたが……
細川政元は文正元年(1466年)生まれ。
単なる守護大名ではなく、幕府の管領でもありました。
それも将軍をすげ替えるほどの権力を持っていたことから「半将軍」と呼ばれており、そこまで力を持てると言うことはさぞかし悪人……というか変人の部類に属するかもしれません。
政元の父は、応仁の乱で東軍を率いた細川勝元です(母は山名煕貴の娘)。
※以下は細川勝元の考察記事となります
戦国時代を招いた細川勝元とは? 応仁の乱は東軍視点で見るとわかりやすい
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つまり生まれた翌年に応仁の乱が勃発しているんですね。
その父が亡くなるのが文明5年(1473年)。
わずか8歳で家督を継ぎ、親戚の補佐を受けて山名側との和睦が進みます。
東軍・西軍の血を引いていた細川政元が鎹(かすがい)となって、この年に【応仁の乱】が終了。
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なんやかんやで足利義材(または義稙)が10代将軍になりますと、この結果に不満を抱いた政元は幕府と距離を置き始めます。
そしてクーデタ~!
10代将軍・足利義稙は京都を出たり入ったり 一体何をした将軍だったのか
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足利将軍 流浪の始まり
クーデターとは延暦寺の焼き討ちではありません。
・10代義材を廃止し、清晃を第11代将軍として擁立した
【明応の政変】であり、実は室町幕府で、将軍が幕臣に追放されたのはこれが初のことです。
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日野富子の支持もあってのことですが、この一件で将軍の権威は地に落ちました。
『麒麟がくる』でも13代将軍・足利義輝や、その父・足利義晴(12代将軍)が京都を追われて転々とさせられていましたが、イキナリの出来事ではなく事前に流れがあったんですね。
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一方、政元はこの政変で大きな権力を手に入れ、宗教も容赦なくブッコワス!ことにしたのです。
それが明応8年(1499年)。
当時、義材と手を結んでいた
・比叡山延暦寺を焼き討ち
です。
出ましたね。悪人キーワードの定番「寺を焼き討ち」です。
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