細川綱利

細川綱利/wikipediaより引用

江戸時代

光秀や藤孝の玄孫だった細川綱利|名門武家三代目・熊本藩主の功績とは?

2025/01/07

寛永二十年(1643年)1月8日は、熊本藩の三代藩主・細川綱利(つなとし)が誕生した日です。

跡継ぎ問題やら財政困難で「江戸時代の大名も大変だ」という話は度々しておりますが、この人もなかなかに苦労をしています。

曽祖父は細川忠興ですので、『麒麟がくる』でもお馴染みの細川藤孝(綱利から見て高祖父)の血筋を引いてるんですけどね。

細川藤孝

細川忠興(奥さんが細川ガラシャこと明智たま)

細川忠利

細川光尚(みつなお)

細川綱利

明智たまからは明智光秀の血も受け継いでいたことになります。

そんな綱利は、一体どんな苦労を背負ったのか。

細川綱利/Wikipediaより引用

生涯を振り返ってみましょう。

 


6歳で大藩を継いだ細川綱利

綱利は6歳のときに父の細川光尚を若くして亡くしてしまいました。

光尚が生前に「我が息子は幼少ですので、領地を返上しても構いません」と語っていたことから、あわや改易ともなりかけたのですが、幕府内でもどうするべきか意見が割れました。

細川光尚

細川光尚/wikipediaより引用

熊本藩はなんせ50万石を超える大藩です。

これを取り潰したとして、その後に誰を据えるか。

ここはかつて加藤清正の加藤家が取り潰されてから細川家が入っており、頻繁に藩主を変えてしまうと領民がなつきません。

清正(と小西行長)が熊本入りする前は【肥後国人一揆】が起き、佐々成政が大変な目にも遭ってますしね。

そういった諸々の理由に加え、細川家の普段の行いが良かったこと、細川家の家臣たちが「何卒改易だけはご勘弁ください※でないと私ら野垂れ死ぬので(´;ω;`)」(※イメージです)と嘆願したことが考慮され、「そのまま細川家でおk」(超訳)ということになりました。

もちろん幼い綱利を補佐するため、実質的な藩政はしばらく家臣や親戚が行っています。

 


奥さんは御三家・水戸藩から初代頼房の娘をもらう

10歳のときには四代将軍・徳川家綱から偏諱を受けて「綱利」と名乗り始めます。

しかし、名実ともに藩政を担い始めたのはもっと後のことでしょう。

19歳のときに弟・利重に5000石ほど領地を分けていますので、おそらくこのあたりから自分の意見を反映できるようになってきたのではないでしょうか。

御三家の一つ・水戸家から正室をもらったのは二十歳のことでした。

お相手は初代・徳川頼房の娘ですから、結構なVIP待遇というか何というか。

徳川頼房/wikipediaより引用

後に綱利は7~8人ほど子供に恵まれたのですけれども、男子が成人する前に亡くなってしまい、跡継ぎとして甥っ子を養子にすることになります。

養子を決めたのは60代に入ってからなんですけどね。

ギリギリすぎる気がしますが、側室もしくは妾相手に頑張ってたのかもしれません。

23歳のときには、支藩として肥後新田藩という藩を作り、利重にこれを任せます。

肥後新田藩は定府大名(参勤交代せず江戸に定住する大名)とし、以後、利重は対幕府の外交官役を果たしていくことになりました。

この辺の外交センスはさすが名門・細川家というスマートさですね。

 

水前寺成趣園を作ったのも綱利だった

いつ頃のことかはっきりしないのですが……。

熊本藩主・忠利のお気に入りだった場所に、現在の【水前寺成趣園】を作ったのも細川綱利です。

水前寺成趣園

後々かなり質素な庭園に作り変えられてしまうのですが、現在の姿からも趣味の良さが感じられますね。

園内には代々の細川家当主が祀られている出水(いみず)神社があり、ご訪問されたい方は公式サイト(→link)をご参照ください。

下には一応グーグルマップを。

神前結婚式が挙げられるそうなので、細川家ファンの方はこちらでお願いするのもいいかもしれません。

その他、明治時代に熊本洋学校(全て英語で授業を行うというスパルタ教育にも程がある学校)の講師ジェーンズのお屋敷が残っていたり、歴史好きにはそそられるスポットです。

 


討ち入りが起きたときすでに59歳だった

細川綱利で注目のエピソードは、なんといっても赤穂事件でしょう。

討ち入り後に切腹が決まった後、死までの時間、赤穂浪士たちを預かったのは綱利だったのです。

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詳細は上記に譲るとして、このとき綱利は59歳。

当時の基準ではとっくに老人です。

にもかかわらず、夜中まで浪士たちの到着を待っていたあたりに、律儀さや敬意がうかがえますね。

食事などもご馳走レベルのものを出していたらしく、浪士たちには「恐れ多いのでこんなに厚遇しないでくだされ」(※イメージです)と言われたそうで。

むろん細川家がいくら大大名でも、幕府の決定には抗いきれず、浪士たちは全員切腹が決まります。

まぁ、現在から見ると「老人をよってたかって襲ったテロ行為」ですし、当時の徳川綱吉の方針からしても許されるものではありません。

徳川綱吉/Wikipediaより引用

それでも綱利は、最後の最後まで浪士への配慮を止めませんでした。

介錯人にはそれなりの身分がある者を当てるだけでなく、切腹が済んだ後、浪士たちが埋葬された泉岳寺へ多額の寄付をしています。

 

「どのような人を家臣に迎えるべきか」

そんな感じで公的デビューの初っ端から波乱万丈だった綱利が亡くなったのは、72歳のときのこと。

養子の細川宣紀(のぶのり)に藩主の座を譲ったのが70歳ですから、まさにベストタイミングというか、計画性ありすぎて逆にコワイ。

ちなみに綱利は、熊本藩主になってからの細川家でかなり長生きなほうです。

上記の通り、父で二代藩主の光尚は30代のうちに亡くなっていますし、七代の宗孝は同じく30代のうちに人違いで殺されるという最悪の椿事に見舞われています。

その後がドケc……もとい「銀台公」として有名な細川重賢です。

細川重賢/wikipediaより引用

さすが名門・細川家――江戸時代に入ってもエピソードに事欠かないですね。

かつて、綱利の曽祖父である忠興は、ときの将軍・徳川秀忠に「どのような人を家臣に迎えるべきか?」と聞かれたことがあります。

忠興はこの難しい質問に「明石の浦の蠣殻のような人がよいでしょう」と答えました。

「荒波に揉まれて良い味になる明石の浦の牡蠣の殻のように、人間も苦労に鍛えられて良い人になるから、そういった人をお迎えなさい」という意味です。

図らずも、自らの子孫がそのような人生をたどったことを、細川忠興はあの世からどう見ていたのでしょう。


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【参考】
国史大辞典
細川綱利/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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