吉原の街で火事を告げる半鐘の音――2025年大河ドラマ『べらぼう』の始まり。
明和9年(1772年)、火の見櫓でその半鐘を叩いているのが主役の蔦屋重三郎です。
花の井という遊女は、禿(かむろ)のさくらとあやめを見つけます。
少女たちは稲荷像を持ち運ぼうとして粘り続け、その場から引き離そうとしても梃子でも動きません。
そこへ重三郎が駆けつけ、機転を利かせます。
「燃えなきゃいいんだ!」と告げると、稲荷像を「お歯黒どぶ」と呼ばれる堀の水に落とすのです。
このころの火災は、消火ができませんので、各人、水をかぶって避難するしかありません。火消しにしても、建物を破壊して延焼を防ぐだけです。
重三郎は水を被り、また被せ、先んじて逃げようとします。草鞋を後ろに蹴り、裸足になって走るところが江戸っ子らしさを感じさせますね。
痛々しいことに、背中に火が燃え移った男が倒れ込んでくる。
助けを求める女の悲鳴も鳴り響いています。
そんな中、燃え盛る街を一人の少年が呆然と見つめている。
「べらぼうめ! 何考えてんだ!」
その姿を見つけた重三郎が少年を引っ張り「おとっつぁんとおっかさんはどうした!」と聞くと、答えがありません。
それ以上詮索したところで仕方ない。今は火事への対応が先。重三郎は少年と共に走り出すのでした。
それは“メイワク火事”から始まった
めいわくねん、明和9年!――そう弾んだ声でナレーションが入ります。
なかなか凄惨な冒頭を駄洒落で笑い飛ばす、江戸っ子の心意気を感じさせる展開。
火災の原因は、無宿坊主が盗みを企て、目黒の寺に放火したことだと説明されます。そして江戸の絵が大きく映し出され、南から北へ、三日三晩燃えた規模の大きさを説明します。
それにしても、なぜ本作は火事の場面から始めたのか?
ご存知の方も多いでしょうが、江戸の歴史と火事は切り離せません。もはやメンタリティが火事ありきになっているのです。
ゆえに「宵越しの金は持たねえ」という刹那的な生き方が広まり、銭を溜め込まなければ、モノを長く使うという発想も湧いてきません。
こうした江戸っ子気質というものは、今後、蔦屋が手がけることになる「黄表紙」といった本や浮世絵の特性を踏まえる上でも重要。
現代人にしてみれば好きな本や漫画、ソフトは買って貯めたいと思うかもしれませんが、江戸っ子は「いつか燃えるかもしれねェ」と思うのでそういう発想が湧きにくい。
ゆえに貸本屋が流行しました。
浮世絵にしても、明治時代を迎えた江戸っ子たちが「こんなもんが売れるのかよ」と外国人に持ち込んだことで国外流出が加速しました。
安くて燃えたらそれきり――という感覚だからこそ、起きた現象と言えるでしょう。
ちなみに関東近郊の古民家ではこうした意識も薄く、江戸土産として大切に保管していた浮世絵が大量に発見されることがしばしばあります。
今もどこかの土蔵に眠っていて、今回の大河を機に世に出るかもしれませんね。
火事のシーンから始めたもう一つの理由は「技術のアピール」でしょう。
炎と高い火の見櫓からぐるっと見回すカメラワークは、技術力の高さをアピールするにはもってこい。番宣映像でも映えます。
燃えたまま転がる気の毒な人も出てきましたね。
同じ制作チームが手掛けた大河ドラマ『麒麟がくる』の序盤でも、火がついたまま転がる兵が出てきています。今年も「本気でやる」という気合いを感じさせますね。
江戸中期なのに生々しい暴力も出てきそう。
『麒麟がくる』といえば、これまた序盤の展開に共通点があります。
主役が高い場所に登っていること。
人助けをする精神性があること。
『麒麟がくる』では、火災から救助された経験のある駒という少女が、「麒麟がくる」とドラマのテーマとタイトルを語りました。
今回は重三郎自身が「べらぼうめ!」とタイトルを口にしています。
火災から救われた駒は、最終回まで登場し、主人公の人生目標を提示し続けました。
今回の火災で重三郎が救った少年も、駒のように大事な存在となるのでしょう。
そして、燃え盛る家に閉じ込められた遊女の悲鳴。
情けに篤い重三郎ですら、ここは通り過ぎるしかありません。誰の助けも得られずに死んでゆく吉原の遊女は、悲しいほどありきたりな存在でした。
このようにドラマのテーマに通底する要素がたくさん詰まった、気合いの入った出だし。
もう一つ、このあと出てくる、ある登場人物の来歴にも関係してきます。
“たい尽くし”の百万都市・江戸
さて、吉原という街を描いた後は、江戸っ子にとっては雲の上のような江戸城大奥へ。
「上様のお成り〜!」
声が響き、お錠口の鈴が響き、錠が外されると、十代将軍・徳川家治が雪のように白い着物姿で姿を見せました。
隣には「側室」のお知保。
そして老女・高岳がしずしずとついてゆく。
江戸幕府誕生からおよそ170年――。
白い着物の上様が、いかにも苦労知らずの若者に見えます。
重三郎はじめ江戸っ子の着物は濃く暗い色をしています。幕府の規制だの流行だの、さまざまな要素はあるものの、汚れが目立たないということもある。
それを将軍はこんな墨や食事の汁が跳ねただけで洗濯しないといけない白ときた。悪い人ではないだろうけど……そう思えます。
そしてナレーションが、百万都市江戸、泰平の世には戦の火ではないものが燃え盛ると続けます。
偉くなりたい!
楽したい!
一旗揚げたい!
儲けたい!
たいたい、「たい」尽くし!
そう言いきられ、廊下を歩いてゆく幕臣と、賭博にのめり込む江戸っ子たち。
屋根の上には火消しの姿も見えますが、屋根をご覧ください。
瓦葺です。
『光る君へ』の直秀は、脚本段階では屋根を飛び回る設定でした。
しかし当時は、町の人が瓦葺の屋根に暮らしていないため、設定が変更されました。このおなじみの家屋になるのは「明暦の大火」の後のことであり、防火対策を踏まえて徐々に進んでいきます。

月百姿「烟中月」/wikipediaより引用
そしてこの欲が蠢く世の中の説明と、重々しい音楽の中、馬上の田沼意次と意知親子の姿が見えます。
世の中を動かしたい人物は田沼意次か?
そう思わせたところで、逃げ惑う重三郎の姿が映し出され
「金なし、家なし、親もなし、ないない尽くしの吉原者がその才覚でのしがっていく」
と紹介され、蔦屋重三郎、または「蔦唐丸」(つたのからまる)と駄洒落で締め括られるのでした。
オープニングへ。
今年は、昨年の根本知先生に続き石川九楊先生です。
オープニングはアニメと実写を組み合わせ、よい意味でEテレの番組のように思えます。
「浮世絵EDO-LIFE」「ねこのめ美じゅつかん」のような味わいですね。
意外性を狙うのではなく、着実に、江戸らしさを残しつつ、こういうのが見たいと届く。そんな堅実性があります。
名前が縦書きで、フォントが明朝体であるのが大変よろしい。
明朝体はいささか古いと感じさせるかもしれませんが、木版印刷の効率を突き詰めたがゆえに残った由緒あるフォントですから、江戸の出版文化にピッタリです。
ワクワクしながら、本編へ進みましょう。
九郎助稲荷、スマホで吉原を解説する
オープニングを挟んで一年半ほど経過し、安永2年(1773年)となりました。
あの稲荷像は引き上げられました。
語りを担当する九郎助稲荷です。それが突然、人の姿となり、吉原の案内を始めます。
綾瀬はるかさんが九郎助稲荷としてナレーターをつとめる意義がよくわかります。
駄洒落まじりのしょうもない言葉を明るく話せるとなれば、彼女はピッタリ。
しかも、こんなに美味しい仕掛けがあるとは参りました。稲荷が、スマホ片手に吉原の解説を始めるのです。
この世界観では、吉原のレビューが荒れ気味で評価がかなり低い1.8……ちょっと想像してみましょう。
・もっと江戸の中心にあればね。そら近場でいいや、ってなるよ。(商人、40代)★★☆☆☆
・いくらなんでも高すぎる。貧乏旗本には無理ッス……。(旗本、20代)★☆☆☆☆
・コスパもタイパも悪すぎんだろw夜鷹でいいよw(職人、30代)★☆☆☆☆
・金と手間に見合うだけの経験ができるかって息子から聞かれて、答えられんかった。(大工、50代)★☆☆☆☆
・気取り過ぎ。金と暇あるなら水茶屋行くわ。(職人、10代)★☆☆☆☆
・「今時吉原かよw」って言われて一瞬凍った。あいにく俺は古いヤツなんでね。(絵師、30代)★★★☆☆
・私みたいな粋な爺いなら、高くても行こうと思いますけどね。正直、若い方には厳しいんじゃないかなと。(商人、70代)★★★☆☆
まあ、こんな感じに荒れてるんでしょうね。
この稲荷スマホはなかなか便利で、ナビゲーションでは徒歩、駕籠、船、馬、それぞれの所要時間で検索できます。
徒歩と駕籠はほぼ同じ……って、そりゃそうですな。
そんなスマホ班を労いたくもなりますが、ヘアメイクもお見事でして、浮世絵でしか見られないような髪型が再現されています。
稲荷は、吉原の悲惨さを明るく説明します。
出入りに厳しく、出入り口大門は一箇所。周りは「お歯黒どぶ」という堀に囲まれていて、稲荷が沈められたのもここだそうです。
稲荷は尻尾を揺らしつつ、大門につづく吉原五十間を進んでゆきます。
すると、そこに蔦屋重三郎の勤める「蔦屋」がありました。
さて、この稲荷ナビゲーションにつきましては『青天を衝け』の徳川家康(北大路欣也さん)との比較論もあるようです。
あれは家康と慶喜を並べるという、福地桜痴以来の歴史修正、プロバガンダの流れを汲むものなので個人的には却下したい。
スケジュールが詰まっていたせいなのか、国旗を逆さまにして謝罪に追い込まれる痛恨事もありましたね。
この稲荷は、むしろ江戸のセンスっぽくていいと思います。
武士や儒学者は「怪力乱神を語らず」なんて言ったものですが、庶民はお構いなし。
狐の存在を信じて生きていたものです。そういうセンスを感じますね。

歌川広重『名所江戸百景』「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」/wikipediaより引用
蔦屋重三郎はないない尽くしの吉原の男
吉原の案内所である「五十間の茶屋」の解説も始まります。
客の刀や荷物を預かり、情報を教える、いわばガイドですね。重三郎は、義兄・次郎兵衛の経営するここで働いているそうです。
この次郎兵衛が、典型的な江戸のバカボンですね。
重三郎が来客の情報を伝え、幼い唐丸を連れて出て行くのに、鏡に向かってボケーっ。こういうバカボンでも、そうそう簡単にくだばらないのが江戸の都市文化ってやつか。
唐丸もこれには疑問のようで「なんで、次郎兵衛はあんなに働かないのか?」と重三郎に問いかけます。
いずれ家を継ぐからだ。彼は実子だけど、重三郎は養子なので先が見えない……ってなこともサラリと語られます。
すると、重三郎の悲惨な境遇が振り返られることになりました。
「十把一絡げの拾い子」
駿河屋は行きどころのない子を養って、大人になったらその辺に若い衆として奉公に出しているそうです。
吉原は男手も「いっぺえいる」と語られますが、これがなかなか危険な業務でして。
刀は一応預かるものの、思い通りにならない客はしばしば暴れるため、ある意味命懸けかもしれません。
そんなわけで、唐丸の児童労働もさらりとプロットに組み込まれてゆきます。
重三郎は幼い少年を働かせているけど、扱いは優しいのでマシといえるでしょう。
貸本屋はなかなかいい商売だ
重三郎は、松葉屋へ向かいます。
女将のいねと半左衛門は、それなりに年齢差があるようで。それでも半左衛門は娘らしき少女に肩を揉ませ、いねの差し出す帳簿を確認していて、よい雰囲気です。
遊女たちの食卓が映されると、なかなか良いものを食べていることもわかる。
これも重要でしょう。松葉屋は、まだ良心的です。
呼出花魁の花の井も食事をとっていて、同じく呼出花魁の松の井は、柱に寄りかかりながら何か書いていました。
重三郎は彼女たちに「お姫様方!」「貸本屋が参った!」と声をかけます。
夢中散人の『辰巳之園』、『石山軍艦』を仕入れてきた。
そう宣伝すると、座敷持花魁のうつせみが『ひらかな盛衰記』はあるか?と尋ねてきます。
重三郎は、茶屋の仕事の合間に貸本屋もしていたのです。働き者ですなぁ。
ここでの本は、
・赤本(子ども向け)
・青本(大人向け)
・浄瑠璃本
・洒落本
・読本
などなど、一冊あたり6文から24文、高いもので72文で貸し出しているとか。あれだけの冊数を用意せねばならない小道具さん、お疲れ様です。
そしてその後に「蕎麦一杯は16文」と続きました。江戸の物価基準として蕎麦の価格はよく使われますね。
セールス上手な重三郎は、怪談噺がいいなら『登志男』がいいと禿に勧めています。
女郎が読み書きできるのは商売上のスキルだから。
生まれ故郷である田舎の農村にでも向かえば、周りの誰もが文字を読めなくともおかしくない状況ですね。
唐丸は、あやめから戻ってきた本が痛んでいると重三郎に見せます。
すると、重三郎は立ち上がり、あやめが駄目にした本3冊分の18文を花の井に請求するのですが、すかさず花の井は「吹っかけすぎだ!」と反論してきました。
一冊6文で計3冊をダメにしただろ、と粘る重三郎。
ダメにしたのは新しい本ではない!と反論する花の井。
営業時間外の女郎は強気ですね。
そんな花の井に「ケチくせぇ!」と重三郎は一歩も引かず、「一晩で十両二十両稼ぐじゃねぇか!」と文句をつけます。まぁ、その稼ぎも何かと費用はかかっているんですけどね。
花の井は腕を突き出し、何かの包みを重三郎の顔の前に突きつけます。
「情念河岸の朝顔姐さんに届けて欲しい」
届けたら16文払うか?と聞き返す重三郎に、花の井は「朝顔姐さんに届けてくれって話だよ?」と低い声で脅すように包みを突きつけます。
彼女が膝を立てると白い脚が一瞬あらわになって、なんとも色気が漂う。
「あんたとあっちの朝顔姐さんだよ、そんなこと言うのかい? あんたそんなこと言う男なのかい?」
「あ〜ったよ!」
迫られ、承知するしかない重三郎。
彼は唐丸に先に戻るように告げ、情念河岸に向かいました。
河岸の二文字屋に朝顔姐さんがいる
お歯黒どぶ沿いの場末で、女郎たちの揚代は線香一本燃え尽きる間の一切、たったの百文。
花の井のいるような大店とは大違い、格差社会だと説明されます。「蕎麦一杯は16文」でしたので、6~7杯の計算ですね。
それでも重三郎は「お姫様方~♪」と明るく声をかけて入っていきます。
すると女郎たちが一斉に群がり、重三郎の手にしている花の井からの包みを開けてしまう。中身は弁当で、手づかみで食べられてしまう。
きくという女将が大声を出してそれを止めると、重三郎はようやく朝顔のもとへ。
奥の部屋には、やつれて咳き込む女が、夜具に横たわっていました。
あまり近付かぬように押し返してしまい、重三郎に謝る朝顔。花の井が届けた弁当には薬まで入っていました。
「花魁の金繰りも楽ではないだろう、自分も辛いだろうに……」と気遣う朝顔。すると彼女は弁当に一礼し、食べずに包んでしまいます。
食べるとむせるから見せたくないという彼女に、重三郎は本を読み聞かせるのでした。
重三郎は、帰りに蕎麦屋「つるべ蕎麦」に寄り、店主の半次郎と話しています。
河岸はそんなに景気が悪いのか……と嘆く半次郎。
「女郎たちは風呂にも入ってねえ」
重三郎が眉をひそめ、答えます。きっと体臭がしたのでしょう。
昼見世とはいえこれだもんなぁ……と周囲を見渡しながら半次郎も嘆いています。
華やかな色街であるはずの吉原は寂れていました。
岡場所と宿場には敵わない――というのも岡場所と宿場とは無許可の風俗街で、吉原にとっては商売敵でした。
さらには楊弓場のようなレジャー施設でも“裏オプション”があり、無許可店よりも敷居の高い吉原には厳しい世の中になっていたのです。
すると半次郎が江戸らしいセクハラ感覚で、「千住に連れてってもらったか」と唐丸に尋ねます。
吉原の男はみんな千住に行くというと、重三郎は「まだ早ぇよ」と一蹴。要は、千住の宿場町ですね。
半次郎は、重三郎と唐丸の関係を語り出します。
なんでも侍のように幼名として「唐丸」、しかも自分と同じ名前をつけたそうです。これはもう、二人はソウルメイトでしょう。
唐丸は昔の記憶がまるでない。
重三郎は粋な仕草で煙管を吸っています。
ガラの悪い客がきた
すると唐丸が、ガラの悪い客から「茶がぬるい」とケチをつけられているではありませんか。
急いで割って入る重三郎。腰を低くして詫びます。
このチンピラどもは三人組で、武士らしく袴をつけて座る男の後ろ姿がみえ、その左右に町人髷に着流し男がついております。
茶が実際ぬるいかどうかは関係ない。因縁つけたいだけなんですよ。
こうした無粋なクズはそうそういないので、重三郎は吉原初見と見てとり、そう語りかけます。チンピラは「あァ?」と凄む。
重三郎は相手をいなし、歓迎しつつ、武士から腰のものを預かりたいと申し出ます。
綺麗な仕草で頭を下げ、刀を包む布を差し出す重三郎。
チンピラは食ってかかり、「兄ぃ」の刀を盗もうってのか!と凄んできます。
ははぁ、義兄弟気取りかよ。『三国志演義』か『水滸伝』の類でも読んでるヤツでもいるのかい。
重三郎は吉原の決まりを説明し、見世に上がるときは誰からも刀を預かると言います。
しかし、深川でも品川でもんなこと言われたことはなかったと、しつこいチンピラども。この騒ぎを、武士らしき「兄ぃ」は黙って見ております。
重三郎は、チンピラではなく「兄ぃ」に言い聞かせるように、吉原は天下御免の場所だと、公方様の権威をチラつかせました。武士なら公方様が決めた吉原の掟には従うべきだと、示したわけですね。
すると座っていた武士が、舌打ちしながらも「おらよ」と刀を素直に差し出してきます。
この武士、なかなかファッショントレンドを掴んでいるうえに美丈夫で、ほつれた鬢の毛は額にかかっている。刀もご立派だと重三郎は感心しております。
するとチンピラ仙太が、差したまま入って行く奴がいると目ざとく見つけます。
こういう奴は兄貴が軽んじられることが一番嫌なんですね。
重三郎が、あの方は馴染みの引手茶屋が中にある、大身のお武家様は中の引手茶屋に預けると説明すると、武士は何か思うところがあるようで。
「馴染みや大身は中……」
そう言いつつ、襟を正す武士。一方でチンピラは重三郎を突如ぶん殴っています。江戸っ子だねぇ。
口の利き方がなってねぇと言いたいようで、
「このお方はなぁ!」
「おう、その辺にしておけよ」
武士はゆらりと立ち上がり、重三郎の近くに座り込みこうきた。
「おめぇもさ、人を見る目を持った方がいいぜ、フッ」
肩に手を置き笑う。そして重三郎の手拭いを投げて去ってゆきます。
「クソが!」そう吐き捨てる重三郎に、唐丸と半次郎が心配して駆け寄ります。
「あんな奴らは鼻から屁がでる病気になればいいんだ」
臭くてたまんねぇだろう、と下ネタ全開で吐き捨てる重三郎。喧嘩は弱くて口が悪いのか、あるいは反撃するのを控えたか。
それにしても、あのチンピラトリオは何様でしょう。
夜見世の花、花魁道中
暮れ六つ、吉原の本番である夜見世の始まりです。
三味線の音がテンポよく響いています。
昨年の『光る君へ』の琵琶と比較すると、格段にテンポがあがっていることがわかります。
中国でも時代が降ると琵琶は縦に持ち、かなりリズミカルに、テンポをあげて演奏するようになります。日本の薩摩琵琶もそう。平安京の琵琶はそうならずに残ったのですね。
三味線は盛場で奏でるものですから、独自の進化を遂げ、ともかく早くリズミカルになりました。
華やかな衣装で着飾った女郎たちが、この三味線の響きを背景に並び、客に「遊んでいかないか」と声をかけています。
メイクは現代人でも違和感のないようにアレンジされておりますが、浮世絵の再現も意識しております。
特に、うなじ、襟足の美しさは絶品。浮世絵の細かい彫りを連想させるではありませんか。
花魁の花の井は、和泉屋からの呼出に「お受けしんす」と返す。廓言葉ですね。
女郎は日本各地の貧家から集められた少女たちで構成されます。各地方の訛りを隠すために作られた人工言語が、この廓言葉の悲しい正体でした。
松葉屋から和泉屋のいる場所まで、練り歩く花の井。
花魁道中が再現されます。
すると「一日千両落ちるとされた吉原の仕組み」として稲荷の解説が始まりました。
稼ぎ頭となったのは、この花の井のような呼出花魁だとされます。
客は大通(だいつう)と呼ばれる身元も財布も確かな金持ちばかり。
客はまず引手茶屋で一席。それから女郎屋でも一席。宴会をこなさねば遊べません。芸者や幇間も呼ばれ、大金が動くわけですね。
和泉屋は「待ちかねたぞ、待ちかね山だ」と浮かれています。
すると、あのチンピラトリオが「吉原なんて大したことねぇ」と言いながら、大通りを歩いています。次はどこを攻めるか?と問われた兄ぃは何やら考えているようで。
そこで、あの花の井の花魁道中が目に入ります。
まるで天女のようなその姿に、釘付けになる武士。
花の井はただ目線を動かしただけでしょうが、こういうバカな男たちは「俺を見た! 俺を誘ったッ!」と妄想に浸りますよね。たちまちメロメロになっております。
“鬼平”どころかこれじゃ“旗本退屈男”じゃねえか
「あの女とはやれねえってどういうことだよ! 兄ぃはなぁ、あの女とやりてえつってんだよ!」
そう言い出し、松葉屋まで乗り込んできたやってきたチンピラども。
重三郎は呆れて見ております。
馴染みの先客がいるといっても「あんなジジイ、すぐへたるに決まってんだろ!」と譲れないチンピラ。どこまで野暮なんだおまえら……。
そのあと回せというと、女将はあの方のあとなら、明日の明日の明日の昼まで待つことになると言います。
チンピラは誰に向かって口きいてんだと凄み、こう言いました。
「このお方はな! れっきとした大(でぇ)のお旗本なんだぜ!」
「お、お旗本……」
「ああ、しかも、メイワク火事の咎人(とがにん)をあげた、あの火付盗賊改方長谷川平蔵宣雄(のぶお)様!」
「ははー」
「……のご子息の、長谷川平蔵宣以(のぶため)様だぞ!」
ここで「フッ」と笑い、鬢のほつれ毛を靡かせる長谷川平蔵。稲荷が念の為、後の「鬼平」だと明かします。
「そういうクチか」
重三郎が冷たく突っ込む。
チンピラ二人が、この度、長谷川家の御当主になられたと威張っている。
要するに、偉い方の長谷川平蔵こと、父・宣雄が亡くなり、跡を継いだということですね。
頭が高えと威張るチンピラに、重三郎は「左様でございましたかァ!」と語りかけます。
そしてこうだ。
「然様にご立派な方とは心得ず、先ほどはご無礼を。いや〜、実は長谷川様目当ての女郎とは幼馴染みにございまして」
「まことか?」
そう如才なく近づき、二人のご縁をとびきりのものにするべく、仕切り直しをすると言い出しました。
吉原一の引手茶屋として駿河屋を売り込み、歌舞伎役者を真似て見栄を切ると、「吉原一」というフレーズに平蔵はものの見事にひっかかっております。
はい、鴨がネギしょってますねぇ。
平蔵たちは上機嫌で宴会を楽しんでおります。
さて、ここの平蔵ですが、既婚者で子どももいます。性欲で吉原に流れ着いているのとは、ちょっと違う事情がありまして。
彼の父は、ここまで語られたようにオープニングで描かれた「メイワク火事」の放火犯を捕まえ、京都町奉行に異例の栄転を遂げました。
このとき、息子も京都へ着いて行くのですが、就任後一年も経たずに急死。
その父親の葬儀で、息子は大口を叩きます。
「長谷川平蔵の名前を英雄のものとして見せまさぁ! みなさんも江戸へ来たら立ち寄ってください」
ホンマかいな。そう父の部下も口をあんぐりさせたことでしょう。
大口を叩いて江戸に戻ったものの、彼には役がつきません。
旗本として「三河以来」の名門とはいえ、大身というわけでもない四百石。しかも「無役」……あんなに大口叩いておいて、もうそろそろ三十なのに、これは厳しい。
往年の時代劇ものに『旗本退屈男』という作品がありまして。
旗本なのに役がつかない主人公が揉め事を解決するお話です。つまり、このころの平蔵は、鬼平どころか“旗本退屈男”なんですね。
彼なりにそれが恥ずかしくて、せめて遊んでナンバーワンになろうとでも暴走しているのでしょう。
他の色街は漁ったぜ、次は吉原だ! 手っ取り早く一番いい女を抱いてやらぁ! 吉原一の引手茶屋の馴染みになってそこに刀を預けてやる!
そう張り込んでいるのでしょう。
で、実際はルールも何も知らない……なんてダセェヤツなんだ。
しかも重三郎が鼻で笑ったように、親が偉いのであって、お前はまだそうじゃない。親のいない重三郎からしたら、それこそ屁のような自慢ですぜ。
無粋を煮詰めたような愚かさ、せっかちさも納得がいきます。
彼なりの焦りなのでしょう。
しかし、だからといってこんな面白バカ枠にしなくても……平蔵の出番はずっと笑いっぱなしだったので、私としては最高ですけどね。
実際の平蔵も、若い頃は不良少年だったし、将軍お目見えもかなり遅れます。
彼を取り立てた松平定信ですら「どこかパフォーマンス重視でおかしなヤツ」と思っていたそうなので、今回の演出は大いにありではないでしょうか。
そんな平蔵が「鬼平」となるのは、田沼意次失脚後、不惑を過ぎた42歳のこと。チンピラ時代の映像化は貴重です。
一方、平蔵を釣り上げた重三郎は、利用する気満々です。
確かに宴席で女相手に力こぶを見せて喜ぶ平蔵は、しみじみとバカを煮詰めたような姿に見えますわな。
駿河屋市右衛門はそんな重三郎の言葉を聞き、満面の笑みを浮かべて宴席へやってきます。
ちなみにこの市右衛門は刺青を入れている設定だそうで、特殊メイクにかなり時間がかかっているそうです。
襟元を注意して見てみれば、確認できると思います。刺青をどこまで再現するのか気になっておりましたが、ちゃんとやるようですね。
河岸の女郎は食べるものすらない
さて、そんな夜、河岸の二文字屋では女郎が皿を舐めています。
すると朝顔の部屋から、そっと弁当が廊下へ差し出される。結局、彼女は手を付けていませんでした。ちどりという若い女郎が手づかみで貪り始めます。
半ばこの世から旅立ったような顔をしている朝顔。
平蔵の宴の後にこのシーンが出てくることにご注目ください。女郎は宴席に侍っても、その料理を食べることはできません。
『光る君へ』では、女君が男君の前で食事をする場面がありません。
当時、女性が男性の前で食事をしたり、食欲を見せることそのものが恥ずかしいとされたのです。
江戸中期ともなれば、そのような風習は残っていませんでしたが、女郎は例外でした。
彼女たちは宴席で何も口をつけず、それが終わったあと、最低限の食事を食べるしかない。花の井のいる松葉屋は食事がしっかりと出されていて、良心的な店だとわかります。
一方、河岸の二文字屋は食べるものすらないのです。
翌朝、女郎が付け火をしたと責められています。
なぜそうしたのか?
火事のあと、吉原は「仮宅」で営業します。仮宅は引手茶屋で宴をするといった手間が省け、遊ぶ金が大幅に減るため、客足も戻る――火付した女郎の目的はそれでした。
要は飢えに苦しみ、そうしてしまったのです。
重三郎が「悪気はねえしボヤだ、許してやってはくれねぇか!」と付火した女郎をかばいますが、もしも大火となれば被害甚大、助けることはできません。
するとそこへ二文字屋のちどりが弁当箱を返しに来ます。
朝顔が全部食ったと安心する重三郎に、ちどりはこう言います。
「おらが食った。おらが、おらが飯食っちまったから……食ったから……」
重三郎は異変を察知し、河岸へと駆け出します。
緑を背景に、裾をからげて走る姿が美しい。髷も走るとバラバラに乱れます。
投込寺無惨
なぜ走ったのか?
向かった先は浄閑寺でした。
上空から、裸の女郎の屍が映されます。
「殺された」とする紹介もありますが、別に刃物で刺されたとか、毒を飲まされたわけではありません。
病死なり衰弱死なり、自然死の範囲でしょう。
そうはいってもまだ若い女が、こうも無惨に命を散らしているのです。
中には朝顔の屍もありました。
重三郎は近寄り、その体を布で覆います。
死んだ女郎は、身につけた服まで剥ぎ取られ、売られてしまう。そして全裸の屍が掘っただけの穴に埋め込まれるから、この寺の別名は「投込寺」とされます。
重三郎は朝顔との思い出を語り出します。
7歳で親に捨てられ、彷徨っていた幼い重三郎。
駿河屋に拾われ、働くことになると、他の子からイジメられてしまいました。
「目からしょんべんが出るようになりますように!」
いじめた相手を思い出し、重三郎が稲荷で願っていると、そこへ朝顔が通りかかります。
おかしな願いだと微笑み、重三郎の話を聞き、本を読むおもしろさを教えてくれました。このころの朝顔の禿であるあざみが、のちの花の井となります。
赤本の謎解きをしてくれて、想像する楽しさを教えてくれた朝顔。
楽しい生き方を伝えてくれた朝顔。
その優しさゆえに、きつい客を引きつけ、飯を与えてしまって、とうとうこんなかたちで命を終えてしまったのです。
「吉原に好きこのんで来る女なんていねぇ。女郎は口減らしに売られてきてんだ。きついつとめだけど、おまんまだけは食えて、親兄弟はいなくても白い飯だけは食える。それが吉原なんだよ! それがろくに食えもしねぇって……そんなひでぇ話あっかよ!」
そう朝顔の手を握り、泣くしかない重三郎。
朝顔から返された弁当箱を見て、花の井はその最期を悟ったようでした。
ここでの屍が早くも炎上しております。演じたのはセクシー女優の方です。
撮影時はかなり気を使っていたそうですが、裸が衝撃的といえばそうです。荒菰に包む方が無難だったかもしれません。悪趣味な釣りだという意見もあります。肉付きが良すぎるという意見もあります。
ただ、遠目ですし、死因も判明しないからには、保留かと思います。
むしろ無惨な屍として扱われるのに、性的な興味関心を惹起すると決めつけるところが、どうにもかえって危ういと思えます。
NHKなんてどうせまともにやるわけがないという決めつけもありますし、SNSで聞き齧っただけで見ていないと言い切る人もいる。見れば見たで回数貢献するという理屈もつく。
ただどうなんでしょうね。2023年のジャニーズ問題を受けての強行や、2019年の盗撮ネタをギャグ扱いしていた大河と比較すれば、むしろ成長著しいのでは?と私なぞ思ってしまいますが。
毎年毎回見ていると、甘くなってしまうもんですかね。まだ一回ですし、今後の推移を見守りたいと思います。
女郎の肉と血で肥え太る忘八ども
そのころ女郎屋のあくどい顔をした店主どもが、何かを覗き込んでいます。
百川の料理――文句をつけているようで、その見事な作りにご満悦の模様です。
ここもわかりやすい、時代劇っぽいアクのある演出でして。
女郎が飢え死にする一方、その女郎で金儲けする連中はうまい飯をたらふく食っているという残酷な図ですね。
「飯が食えねえくらいで付け火するとは、やっぱり河岸女郎はおかしいなw」
そう談笑しながら、飲食するこいつらに人の心はあるのでしょうか?
中でも大文字屋は、カボチャばかりを食わせることで悪名高いようです。
今年の大河は消え物、食べ物の見栄えは随一でしょう。池波正太郎愛読者が悶絶しそうな江戸メシがお目見えします。
するとそこで障子がスパーン!と開き、乗り込んできた重三郎が「そのカボチャにすら難儀している!」と言い切ります。
主人に「帰(けえ)れ」と言われてもひかず、松葉屋に朝顔が死んだことを知っているかと問いかける重三郎。
飯がくえねえからだというと、りつという女将が「胸って聞いたよ」と答えます。肺結核を患っていたのでしょう。
「あっけなく病死するのは飯がくえてねえからだ!」
重三郎はめげずに、炊き出しでもして欲しいと告げ、このままじゃ女郎はどんどん減ると訴えます。
そうなりゃ客も減るし店も潰れる――そう訴えるものの、大文字屋が「女郎が死ぬのは悪くねえんだよ!」と突っぱねます。
河岸女郎なんざ呼出みてねえな格別の女でもない。どこにでもいる女は一切百問で股を開いているだけだと言い切るのです。
「んなもんな、どんどん死んで入れ代わってくれた方が客も楽しみなんだよ!」
「そりゃあまりにも情けなかねえですか。親父様たちは人じゃねえです! 人として……」
「あいにく私たちは忘八(ぼうはち)なもんでね」
これは儒教の八つの徳を忘れた外道をさします。
八徳とは『八犬伝』の玉でおなじみの【仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌】のこと。
これが出てくるだけ当時の日本人は進化しています。
例えば『光る君へ』の道長がスラスラ答えられるか?と言えば怪しいですし、『鎌倉殿の13人』の坂東武者など「なんだそれうめぇのか?」とでも返ってきそうなモンです。
「忘八」が出てくるだけで偉いんですよ。
本作の制作チームは『麒麟がくる』と同じです。あのドラマで光秀は、こうした儒教徳目がないと嘆き、それが広まりゆくことを「麒麟の到来」で示しつつ、終わりました。
とはいえ、麒麟がきても、地獄は続く。
冒頭でいみじくも稲荷が語った通り、別の戦が起き、別の炎が燃えているわけです。
「けど……けど、俺たちは女郎に食わせてもらってるじゃねぇですか! 吉原は女郎が神輿で女郎が仏! 俺ぁそうやって教え込まれましたぜ! いくら忘八でもそこだけはお題目突っ張んねえといけねえんじゃ……」
重三郎がそう返すと、頭を掴まれ引きずられ、階段から蹴り落とされるのでした。下手すりゃ首折って死にますぜ。
下の階では駿河屋の女将が饅頭を食べていました。女郎でなければ人前で食べても平気なんですね。
かくして重三郎は「うっせえんだよ、おめえ」と追い出されたましたが、このシーンには色々な意味で近代の萌芽が映し出され、かつ本作の世界観も凝縮されていたように思われます。
『光る君へ』から『鎌倉殿の13人』の中世は、そもそも倫理や徳目への理解が薄い。
その300年後にやってきた長い乱世を終え、朱子学を浸透させることを目指したのが『麒麟がくる』です。
その先はどうか?
江戸中期ともなれば、寺子屋で儒教倫理を学び、江戸っ子だってわかっちゃいます。
しかし実行に移すかどうかは別の話。
百万都市の江戸ともなれば、別の価値基準が生まれてきます。
資本主義の萌芽です。
重三郎は、倫理を忘れたと言い張る「忘八」相手に、経済の仕組みでもって反論する。
稼いでくれる労働者にはそれなりの待遇が必要だ。労働契約条件として、衣食住確保がある以上、食事を提供しないことはルール違反だと。
彼らは紛れもなく、人として進化してゆく途上にあります。
厠の男、田沼意次を推薦してくる
重三郎が毒付いていると、唐丸が「警動(けいどう)」とは何か?と聞いてきます。
吉原以外の非公認遊郭を取り締まることであり、重三郎は倫理ではなく、法を頼ろうとしました。
奉行所に訴え出て潰し、吉原の賑わいを取り戻そうというわけです。
しかし、奉行所は動かねえ!
名主の訴えでなければ聞かれなかったようで、廁でその顛末を唐丸相手にこぼしております。
クソだ!と罵倒していると、廁にいた男が「それはクソにご無礼ってもんよ。あいつらは屁!」と語りかけてきます。この大河、下ネタが好きだな、おい。
男曰く、クソは畑に撒けば肥料になるが屁はそれにもならない。確かに江戸時代ともなると、肥は換金できました。
『光る君へ』の舞台である平安時代中期は、肥が土の栄養になる因果関係がまだ見出せていない。そのため換金する発想が出てこない。ゆえに平安京には排泄物が放置されていました。そこから進化したのです。
警動してもらうならどうするのか?と重三郎が男に問い、吉原の苦境について愚痴をこぼします。
「じゃあいっそ、田沼様のところに行ってみるってのはどうだい?」
「ああ、田沼様」
「おう、ご老中のよ」
「ああ……ええっ!」
驚く重三郎。
男曰く、町場のもんの話でも聞いてくれるとか言ってるけど、おめぇさん、何者よ? 屁について語っているだけに『放屁論』でも書いているんで?
担いでないか?と重三郎がいうと、兄ちゃん担いでどうなんのかと返してくる男。たしかにその通り。
男はここで、田沼様肝入りの炭を売りつけてくるのでした。相当な変人ですね、男も、田沼も。
居ても立っても居られない重三郎は田沼屋敷へ向かい、駕籠から降りた男の跡をついていきます。
「和泉屋様〜ご無沙汰しております!」
吉原の馴染みですね。
重三郎は、図々しく荷物持ちをすると言い張り、偶然を装って無理矢理田沼屋敷へついていきます。
ずいぶん立派な屋敷ですが、これも収賄の成果か。
屋敷にはあの百川の仕出し弁当が積まれており、重三郎は一つ手に取ります。
それを見下ろすように、屋敷の庭では田沼意知が女相手に「なりませぬ」と言われても何かしております。
バカ息子は帯でも解いているのか?
と、時代劇ファンを騙しておいて、実際は百川の弁当を預けていました。無駄に太った親父が食うのではなく、女中たちに食べさせようという優しい心遣いです。
ここは印象的な場面です。
自分たちは百川の料理に舌鼓を打ちつつ、女郎には食わせない忘八よりもはるかに優しい。
しかし、どうしてこんな高級料理が余るほどあるのか? というと、田沼意次が収賄に励んでいるからともいえる。
息子が使用人にそれを与えることは、美談なのでしょうか?
政治家ならまず、民が飢えない政治をすべき――そう主張する人物が今後出てくることでしょう。
経済を重んじる田沼意次、贈賄は断らない
ここで和泉屋の前に、袴をつけていない意次が姿を見せます。
腰の具合を聞くあたり、彼のコミュニケーション力が伺えますね。
自分のような者のことまで覚えていてくれたのか!――そう相手を感動させることができるでしょう。
意次は、新たな産地での商いの件だと聞いていると、単刀直入に本題へ入ることを促します。面会者が多く、忙しいのでしょう。
すると和泉屋は「かの地ではよい肥ができるからお納めいただきたく」として、重三郎が壺を差し出します。
そのようなものを持ってくるな!と意次。肥やしなら相当臭いでしょうよ。
案の定、壷の蓋を開けると、中は黄金色の小判でした。なんという贈収賄ぶりよ。
「ふっ、これはこれは、実によう効きそうな肥じゃの」
「たわわに実りましょうぞ、山吹の実が。取り入れがなりましたら、相応の運上冥加はお納めいたします」
ここで重三郎が、割って入ります。
「恐れながら、吉原も運上冥加を納めております!」
突然の横入りに驚く和泉屋。重三郎は田沼様に聞いて欲しい話があると言います。
「手短に申せ」
重三郎は、ここで資本主義の倫理で主張します。
公認遊郭の吉原は、運上冥加を納めている。
一方で非公認遊郭は納めていない。
それなのに、その非公認のせいで吉原が圧迫されている。どう考えても道理にあわない。
「けいどう」をお願いしたい。
そう言われ、意次は断ります。吉原のためだけに「国益を逃すわけにはいかん」と言い切るのです。
意次が名前を聞き「蔦の重三」と確認します。
田沼意次と蔦屋重三郎の問答
意次は逆に問いかけます。
「江戸へ入る五街道沿いの宿場町が、一つでも潰れたらどうなる?」
交通網が滞ると理解する重三郎。意次は相手との問答で、力量を見定めているように思えます。
宿場町が一つ潰れれば、それにより大幅に利益が減り、国益が逸することになると続ける。裏を返せば、宿場が栄えれば莫大な国益が生まれるとも。
その宿場を栄えさせるのは何か?と問われ、ハッとさせられる重三郎。
「女と博打です」
求めていた答えが得られて納得し、宿場町から飯盛女の大幅な増加を求められて認めてきたと答える意次。
おかげで宿場は栄え、運上も増えている。
そうした国益を棒に振ってまで、吉原のためだけに「けいどう」を動かすわけにはいかないというわけです。
それならば岡場所だけでも取り締まって欲しいと食い下がる重三郎。
吉原だけ特別なのは危ねえ目に遭う女がいたからだといい、天下御免の色里が廃れたとあってはお上の威光に関わると返します。
すると反論に窮したのか。
意次は立ち上がり、重三郎の横に腰を下ろします。
百川は、吉原の親父たちが上得意だと言っていた。百川を得意とするほどの吉原が食えぬのは、岡場所や宿場のせいばかりではない。
「けいどう」を願う前に、忘八どもの取り分が多すぎるのだと指摘し、さらに言えば吉原に客が足を運ばないのは、吉原がそうするだけの値打ちがない場所に成り下がったからではないか?と本質を突いてきます。
重三郎は、女郎は懸命に務めていると返すも、ならば人を呼ぶ工夫が足りぬのではないか?と指摘する意次。
「お前は何かしているのか?客を呼ぶ工夫を」
思わず目が泳いでしまう重三郎。
すると意次が、和泉屋に商いの件は承知したと言いながら、立ち去ろうとします。
「田沼様……お言葉、目が覚めるような思いがいたしやした!まこと、ありがた山の寒がらすにございます!」
そう返す重三郎の声を聞きながら、意次は去ってゆくのでした。
今回のタイトルも回収し、堂々たる音楽が流れ、蔦屋重三郎の前半生、成り上がる過程の課題設定ができるわけですが。
この時点で危うい。
意次が答えに窮したのは「天下御免の色里の御威光」です。
彼も武士ですので、長谷川平蔵同様、公方様を持ち出されると弱い。
これも一種の「忠」ではある。
こういう倫理に訴えたらば重三郎は突破できるけれども、そうはなっていないように思えます。
少し詳しく考えてみましょう。
この世はすべて金、金、金…倫理はどうした?
意次と重三郎の両者は、経営破綻について話し合い、予算配分の不均衡と宣伝手法について意次は意見を述べました。
重三郎はその点に納得しているわけですが、結局、そこには「飢える女郎が哀れだ」という素朴な感情がありません。
『光る君へ』と比較しますと、道長が政治を変えたいと願ったのは、直秀の無惨な屍を埋めた時のことでした。
それが実現したかはさておき、憐憫で動いています。
そこから倫理がさらに進んで根付いたようで、それが資本主義の道理に上書きされつつある。
意次の理屈でいうと、国益のためなら女を犠牲にし、博打も認めて堕落も許容しろということになります。
金儲けできるなら全て良い。そう上塗りされてゆく。それでよいのかどうか。
意次がここで「国益」という単語を使うのは、適切なのかどうか。
これも「歴史総合」を思い出します。
彼らの生きる時代は、どうしたって「国益」を意識せねばならない局面に到達していました。
なにせ隣国の清は、世界の総GDPの三割を占めていた――そんな巨大な国を隣にして、チマチマと質素倹約してこの先、道があるのか? そう焦燥感に駆られたのが田沼意次の政治です。
それはそれで近代への目覚めではあるのだけれども、そうやって金を数えることで、昔ながらの倫理観は薄れ消える。そういう恐ろしい何かが見えてきます。
国益のために女を犠牲にするということも、もう一度考え直すべき課題といえるでしょう。
2020年大河ドラマ『青天を衝け』では、渋沢栄一と朝鮮についてほとんど触れずに終わりました。このことを再考する必要も感じます。
『べらぼう』は、あえてそんな近代以降の悪しき傾向を先んじて見出していると思えますが、韓国ではこんな嘆きがあります。
日本に支配されたことで、性的道徳が崩壊したのだと。朝鮮にも「妓生」(キーセン)という宴席に侍る女性はいました。しかし、あくまで芸を披露する名目があり、そこまで性的な規範が緩いわけでもなかった。
ところが渋沢栄一のような、幕末明治に芸者とたっぷり遊んできた日本人権力者は、宴席に侍る女なんてみんな日本の芸者と同じだろうと、性的な接待を当然のこととしてしまった。
こうした慣習が染み込んでしまい、事態は悪化したと指摘されているのです。
これについてはどういう反論があるか想像はつきますが、それは横にひとまず置きましょう。
近代日本が女性の性を外貨稼ぎに利用してきたことは、どうしたって否定できません。
「からゆきさん」と呼ばれた女性もいました。
まだ産業発展が十分でない明治時代、女性を海外に送り出し、性を売り物とすることで外貨獲得を目指し、それに従事した女性をこう呼んだのです。
第二次世界大戦敗戦後、米兵と腕を組んで歩く日本人女性も多く見られました。
政府主導で女性を集め、米兵をもてなすように仕向けたのです。米兵家族の反発もあり頓挫したものの、「パンパン」と呼ばれる私娼はおりました。
連綿と続けてきた国益のために女性を犠牲にする歴史を、そろそろ振り返ったらどうか?
この作品は、台詞の言葉選びからそうした挑発的なものを感じさせます。
桶伏せにあい、考える重三郎
さっぱりした顔で、田沼屋敷をあとにする重三郎。
吉原五十間を進んでいくと、若い衆が巨大な桶を転がしてくるところに出会します。
「お〜、でっけぇ!」
無邪気に驚く様子の重三郎。
すると親父様方が重三郎を待ち受けていて、駿河屋が凄んできます。
勝手に「けいどう」を頼んだことで、奉行所から会所にお尋ねが来て大変なことになったのだとか。
重三郎は反論するも駿河屋に殴られます。
カボチャの大文字屋は、そんなことしたら岡場所の女の面倒を見る羽目になるだろ!とこれまたキレています。
確かに取り締まりにあった女郎は吉原へ送られてきて、大変なことになる。
重三郎は人を呼ぶ工夫をしよう!と言い出すものの、ここで田沼の名前を出したことで、老中にまで話をつけたことが発覚してしまいます。
「この、べらぼうめ!」
駿河屋がぶん殴り、ここから先はボコボコに殴る蹴るをされてしまう。
そしてあのでかい桶を被せられ、閉じ込められてしまうのでした。
吉原の懲罰「桶伏せの刑」です。
ったく、蔦重、桶を見た時点で警戒しろぃ!
かくして桶の中で何日も何日も、考える羽目になる重三郎。
途中、雨が降るわ、鼻を噛んだ紙を投げ入れられる嫌がらせをしつこく受けるわで大変なことになります。
三日三晩が過ぎた頃、重三郎は『吉原細見』を見てはしゃぐ客を思い出し、何かをひらめきます。
そしてやっと桶から出され、重三郎は『吉原細見』を手に取ります。
これ新たに作り出す――そう決めた瞬間でした。
MVP:朝顔
その名前の通り、朝に咲いて萎んでしまう花のような存在でした。
ヒロインはしばしば花になぞらえられます。遊女の源氏名に花の名前は定番です。
とはいえ、生身の人間を花になぞらえるとは、なんと残酷なのでしょうか。
花と違い、遊女は裸に剥かれ、そのまま地面に投げ出されました。
遊女を葬る寺は紀行にも出てきた浄閑寺です。
別名は「投込寺」――遊女の屍を投げ込むように葬ることからこう呼ばれました。
朝顔はそんな儚い遊女の一人です。
回想場面に出てくるあでやかで美しい姿は、登場時点でもうありません。
肺を病み、最下層遊女のいる河岸で客を取らされ、あっけなく命を落としてしまう。
一話にして遊女の転落が象徴されました。
落ちた花としてだけではなく、重三郎に空想することの楽しさを伝えた。
朝顔の禿であった花の井との縁も繋いだ。
美しい余韻を残して消えてゆきました。
朝顔のような人が葬られているのだと思えば、浄閑寺で合掌したくなります。
総評
第一回からつかみはバッチリでした。
至る所に工夫があり、見ていて楽しめます。
江戸っ子らしい語彙力が大変素晴らしく、これはもう森下佳子さんの脚本でないと無理だろうと感じました。
彼女の頭の中にああいう言い回しが入っていて、スラスラ出てくるのだろうと思われます。
江戸っ子の割と単細胞で野蛮な行動規範もたまりません。
やたらと短気で暴力的ですからね。ちょっとでも気に食わねえとすぐぶちのめす。やはりこうでないといけないと思いました。
技術的にも工夫があります。
吉原のあの道幅を再現しているだけでも見栄えがします。
時代劇定番のセットだと、浮世絵で見られるあの道幅が再現できていない。どうしても狭くなる。それでも仕方ないと脳内で自動的に妥協していたのだと、ハッとしました。
まだ実写とVFXの繋ぎは若干わかってしまいますが、今後はこなれていくことでしょう。
そうした技術以上に考証がある意味重要です。
浮世絵の世界観をなるべく再現しようという気配りが感じられ、まるで絵が動き出したような美しさでした。
脚本もよく練られています。
恩人である朝顔の屍を前に、吉原に賑わいを取り戻すことを誓う重三郎。
そのために工夫をこらし、田沼意次に直談判しに向かうと「客を呼び込む工夫をするように」と言われ、ここから先、序盤は吉原のブランドイメージ向上に取り組むことになる。
導入としてよくできています。
蔦屋重三郎の躍進は、田沼意次の経済政策あってのものとされます。
そういう意味ではこの二人の邂逅は運命的とも言えますが、現時点でどこか危うさも見て取れます。
田沼意次は、肥溜めに偽装した黄金色の賄賂を突き返さず受け取っている。
散々書いてきましたが、このドラマは近代に向かう中で、問題の萌芽を描いていると思えます。
それは要するに資本主義経済の歪みですね。
重三郎にせよ、田沼意次にせよ、現時点でもう儲けることをフックに打開策を考えている。
しかし、それだけだといずれ破綻します。
田沼意次の失脚はこのドラマの前半ハイライトでしょうし、重三郎が吉原女郎の苦境を解決したら、それは歴史修正になってしまう。つまり実現できません。
第一話の時点で、もうそこは破綻すると見えてきています。
その上で、どうしてそうなってしまうのか、見る側まで考えて欲しいと投げかけてくると想像できます。
この第一回を見て、小難しくなく明るいという評価もありましたが、むしろ難解だと思いました。
あまりに難解なので、噛み砕く工夫はしてあります。
九郎助稲荷ナビもそうですし、唐丸相手に重三郎が語りかけることで、説明も自然にしているのですね。
ただし、登場人物がしばしば思ったことをそのまんま吐き捨てるのは、わかりやすさのためではなく、江戸っ子の気性でしょう。京都人とはちげぇのよ。
強引だった田沼意次との対話も、テーマがみっちり詰まっていると思います。
蔦屋重三郎の躍進は、田沼時代あってのこと。二人をどうにかして絡ませるべく、早々にそうしてきました。
そのうえで、この二人の問答がすでに危うい。
破綻の予感が既に生じています。
主人公である重三郎の性格も見えてきます。
『麒麟がくる』の光秀は理屈っぽく、理想主義者でした。理念先行型で、コミュニケーションはそこまで得意でもありません。学者肌ともいえる。
重三郎は情熱的で、エンタメ型で、コミュニケーション力はここ数年の大河主人公でも屈指の高さです。
頭のキレはある。言葉巧みに、相手の想いを引き出し、当意即妙に正解を出せます。だからこそ意次との問答が成立している。
その反面、思慮の浅さが既に出ています。
「けいどう」が実現されたとして、押し寄せる岡場所の女郎をどうすべきだったのか、考えていません。
この欠点は、今後ジワジワと効いてくるのでしょう。
同じ森下佳子さんの大河でいえば『おんな城主 直虎』の小野政次や、ドラマ10『大奥』の井伊直弼と正反対に思えます。
政次と直弼は、態度や言動に難ありで周囲に拒絶され、誤解も受けてしまいますが、理論としては常にほぼ正しい。
重三郎は人当たりがよいし、当意即妙、その場その場でよいリアクションも取れるけれども、詰めの甘さと根底にある論理の弱さが課題となることでしょう。
『光る君へ』のまひろは陰キャ女王でしたが、今年は陽キャ王者のようです。
まひろ系の陰キャ理屈先行型で性格難ありな人物枠は、後半、曲亭馬琴でも待ちましょう。期待しています。
今年は走るドラマになります。
炎上もするでしょうし、扱うテーマがテーマだけに、毎週「NHKは利用している!性的搾取を促進している!」とSNSで問題視され、ネットニュースにもなりそうに思えます。
既にゲンダイさんも懸念を表しております。
それにしてもゲンダイさんに応じるテレビ関係者さんって、リアクションが毎度素早いと感心してしまいます。
「賛否」って見出しも卑劣ですねぇ。
んなもん、万物に賛否があるのは当たりめえじゃねぇか。それで何か言った気になるくれぇ、おめでてぇ発想にオレもなりてぇよ!
◆NHK大河「べらぼう」女郎の“裸死体シーン”に賛否…「光る君へ」で掴んだ女性ファンの離脱を心配する声も(→link)
とまぁ、そんな野暮なツッコミはさておきまして。
でもよ、やらなきゃいけねえと思ったらそうするしかねえんだよ。そういう心意気でないと。
『鬼滅の刃』で遊郭を扱っておいて、大河でそれをやらないのは、矜持がないと思われても仕方ないところです。
それに、ちょっと考えてみてもください。
大河は西日本に偏ってんだよォ!
戦国三傑となれば中部以西だし、幕末は薩長がデカいツラしてるし、文化の中心だった江戸を軽視しすぎじゃないですかね。
江戸を真面目にやれ。もうそこは待ったなしだから仕方ない。
でも江戸文化をやるにせよ、吉原をロンダリングしたままではいかんでしょう。
このさきどんな困難が待ち受けていようと、それは通らねばならない道だと私は思うことにします。
そういう挑戦は、挑むことそのものに意義があるのです。
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【参考】
べらぼう/公式サイト




