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【『べらぼう』感想あらすじレビュー第1回「ありがた山の寒がらす」】
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“鬼平”どころかこれじゃ“旗本退屈男”じゃねえか
「あの女とはやれねえってどういうことだよ! 兄ぃはなぁ、あの女とやりてえつってんだよ!」
そう言い出し、松葉屋まで乗り込んできたやってきたチンピラども。
重三郎は呆れて見ております。
馴染みの先客がいるといっても「あんなジジイ、すぐへたるに決まってんだろ!」と譲れないチンピラ。どこまで野暮なんだおまえら……。
そのあと回せというと、女将はあの方のあとなら、明日の明日の明日の昼まで待つことになると言います。
チンピラは誰に向かって口きいてんだと凄み、こう言いました。
「このお方はな! れっきとした大(でぇ)のお旗本なんだぜ!」
「お、お旗本……」
「ああ、しかも、メイワク火事の咎人(とがにん)をあげた、あの火付盗賊改方長谷川平蔵宣雄(のぶお)様!」
「ははー」
「……のご子息の、長谷川平蔵宣以(のぶため)様だぞ!」
ここで「フッ」と笑い、鬢のほつれ毛を靡かせる長谷川平蔵。稲荷が念の為、後の「鬼平」だと明かします。
「そういうクチか」
重三郎が冷たく突っ込む。
チンピラ二人が、この度、長谷川家の御当主になられたと威張っている。
要するに、偉い方の長谷川平蔵こと、父・宣雄が亡くなり、跡を継いだということですね。
頭が高えと威張るチンピラに、重三郎は「左様でございましたかァ!」と語りかけます。
そしてこうだ。
「然様にご立派な方とは心得ず、先ほどはご無礼を。いや〜、実は長谷川様目当ての女郎とは幼馴染みにございまして」
「まことか?」
そう如才なく近づき、二人のご縁をとびきりのものにするべく、仕切り直しをすると言い出しました。
吉原一の引手茶屋として駿河屋を売り込み、歌舞伎役者を真似て見栄を切ると、「吉原一」というフレーズに平蔵はものの見事にひっかかっております。
はい、鴨がネギしょってますねぇ。
平蔵たちは上機嫌で宴会を楽しんでおります。
さて、ここの平蔵ですが、既婚者で子どももいます。性欲で吉原に流れ着いているのとは、ちょっと違う事情がありまして。
彼の父は、ここまで語られたようにオープニングで描かれた「メイワク火事」の放火犯を捕まえ、京都町奉行に異例の栄転を遂げました。
このとき、息子も京都へ着いて行くのですが、就任後一年も経たずに急死。
その父親の葬儀で、息子は大口を叩きます。
「長谷川平蔵の名前を英雄のものとして見せまさぁ! みなさんも江戸へ来たら立ち寄ってください」
ホンマかいな。そう父の部下も口をあんぐりさせたことでしょう。
大口を叩いて江戸に戻ったものの、彼には役がつきません。
旗本として「三河以来」の名門とはいえ、大身というわけでもない四百石。しかも「無役」……あんなに大口叩いておいて、もうそろそろ三十なのに、これは厳しい。
往年の時代劇ものに『旗本退屈男』という作品がありまして。
旗本なのに役がつかない主人公が揉め事を解決するお話です。つまり、このころの平蔵は、鬼平どころか“旗本退屈男”なんですね。
彼なりにそれが恥ずかしくて、せめて遊んでナンバーワンになろうとでも暴走しているのでしょう。
他の色街は漁ったぜ、次は吉原だ! 手っ取り早く一番いい女を抱いてやらぁ! 吉原一の引手茶屋の馴染みになってそこに刀を預けてやる!
そう張り込んでいるのでしょう。
で、実際はルールも何も知らない……なんてダセェヤツなんだ。
しかも重三郎が鼻で笑ったように、親が偉いのであって、お前はまだそうじゃない。親のいない重三郎からしたら、それこそ屁のような自慢ですぜ。
無粋を煮詰めたような愚かさ、せっかちさも納得がいきます。
彼なりの焦りなのでしょう。
しかし、だからといってこんな面白バカ枠にしなくても……平蔵の出番はずっと笑いっぱなしだったので、私としては最高ですけどね。
実際の平蔵も、若い頃は不良少年だったし、将軍お目見えもかなり遅れます。
彼を取り立てた松平定信ですら「どこかパフォーマンス重視でおかしなヤツ」と思っていたそうなので、今回の演出は大いにありではないでしょうか。
そんな平蔵が「鬼平」となるのは、田沼意次失脚後、不惑を過ぎた42歳のこと。チンピラ時代の映像化は貴重です。
一方、平蔵を釣り上げた重三郎は、利用する気満々です。
確かに宴席で女相手に力こぶを見せて喜ぶ平蔵は、しみじみとバカを煮詰めたような姿に見えますわな。
駿河屋市右衛門はそんな重三郎の言葉を聞き、満面の笑みを浮かべて宴席へやってきます。
ちなみにこの市右衛門は刺青を入れている設定だそうで、特殊メイクにかなり時間がかかっているそうです。
襟元を注意して見てみれば、確認できると思います。刺青をどこまで再現するのか気になっておりましたが、ちゃんとやるようですね。
河岸の女郎は食べるものすらない
さて、そんな夜、河岸の二文字屋では女郎が皿を舐めています。
すると朝顔の部屋から、そっと弁当が廊下へ差し出される。結局、彼女は手を付けていませんでした。ちどりという若い女郎が手づかみで貪り始めます。
半ばこの世から旅立ったような顔をしている朝顔。
平蔵の宴の後にこのシーンが出てくることにご注目ください。女郎は宴席に侍っても、その料理を食べることはできません。
『光る君へ』では、女君が男君の前で食事をする場面がありません。
当時、女性が男性の前で食事をしたり、食欲を見せることそのものが恥ずかしいとされたのです。
江戸中期ともなれば、そのような風習は残っていませんでしたが、女郎は例外でした。
彼女たちは宴席で何も口をつけず、それが終わったあと、最低限の食事を食べるしかない。花の井のいる松葉屋は食事がしっかりと出されていて、良心的な店だとわかります。
一方、河岸の二文字屋は食べるものすらないのです。
翌朝、女郎が付け火をしたと責められています。
なぜそうしたのか?
火事のあと、吉原は「仮宅」で営業します。仮宅は引手茶屋で宴をするといった手間が省け、遊ぶ金が大幅に減るため、客足も戻る――火付した女郎の目的はそれでした。
要は飢えに苦しみ、そうしてしまったのです。
重三郎が「悪気はねえしボヤだ、許してやってはくれねぇか!」と付火した女郎をかばいますが、もしも大火となれば被害甚大、助けることはできません。
するとそこへ二文字屋のちどりが弁当箱を返しに来ます。
朝顔が全部食ったと安心する重三郎に、ちどりはこう言います。
「おらが食った。おらが、おらが飯食っちまったから……食ったから……」
重三郎は異変を察知し、河岸へと駆け出します。
緑を背景に、裾をからげて走る姿が美しい。髷も走るとバラバラに乱れます。
投込寺無惨
なぜ走ったのか?
向かった先は浄閑寺でした。
上空から、裸の女郎の屍が映されます。
「殺された」とする紹介もありますが、別に刃物で刺されたとか、毒を飲まされたわけではありません。
病死なり衰弱死なり、自然死の範囲でしょう。
そうはいってもまだ若い女が、こうも無惨に命を散らしているのです。
中には朝顔の屍もありました。
重三郎は近寄り、その体を布で覆います。
死んだ女郎は、身につけた服まで剥ぎ取られ、売られてしまう。そして全裸の屍が掘っただけの穴に埋め込まれるから、この寺の別名は「投込寺」とされます。
重三郎は朝顔との思い出を語り出します。
7歳で親に捨てられ、彷徨っていた幼い重三郎。
駿河屋に拾われ、働くことになると、他の子からイジメられてしまいました。
「目からしょんべんが出るようになりますように!」
いじめた相手を思い出し、重三郎が稲荷で願っていると、そこへ朝顔が通りかかります。
おかしな願いだと微笑み、重三郎の話を聞き、本を読むおもしろさを教えてくれました。このころの朝顔の禿であるあざみが、のちの花の井となります。
赤本の謎解きをしてくれて、想像する楽しさを教えてくれた朝顔。
楽しい生き方を伝えてくれた朝顔。
その優しさゆえに、きつい客を引きつけ、飯を与えてしまって、とうとうこんなかたちで命を終えてしまったのです。
「吉原に好きこのんで来る女なんていねぇ。女郎は口減らしに売られてきてんだ。きついつとめだけど、おまんまだけは食えて、親兄弟はいなくても白い飯だけは食える。それが吉原なんだよ! それがろくに食えもしねぇって……そんなひでぇ話あっかよ!」
そう朝顔の手を握り、泣くしかない重三郎。
朝顔から返された弁当箱を見て、花の井はその最期を悟ったようでした。
ここでの屍が早くも炎上しております。演じたのはセクシー女優の方です。
撮影時はかなり気を使っていたそうですが、裸が衝撃的といえばそうです。荒菰に包む方が無難だったかもしれません。悪趣味な釣りだという意見もあります。肉付きが良すぎるという意見もあります。
ただ、遠目ですし、死因も判明しないからには、保留かと思います。
むしろ無惨な屍として扱われるのに、性的な興味関心を惹起すると決めつけるところが、どうにもかえって危ういと思えます。
NHKなんてどうせまともにやるわけがないという決めつけもありますし、SNSで聞き齧っただけで見ていないと言い切る人もいる。見れば見たで回数貢献するという理屈もつく。
ただどうなんでしょうね。2023年のジャニーズ問題を受けての強行や、2019年の盗撮ネタをギャグ扱いしていた大河と比較すれば、むしろ成長著しいのでは?と私なぞ思ってしまいますが。
毎年毎回見ていると、甘くなってしまうもんですかね。まだ一回ですし、今後の推移を見守りたいと思います。
女郎の肉と血で肥え太る忘八ども
そのころ女郎屋のあくどい顔をした店主どもが、何かを覗き込んでいます。
百川の料理――文句をつけているようで、その見事な作りにご満悦の模様です。
ここもわかりやすい、時代劇っぽいアクのある演出でして。
女郎が飢え死にする一方、その女郎で金儲けする連中はうまい飯をたらふく食っているという残酷な図ですね。
「飯が食えねえくらいで付け火するとは、やっぱり河岸女郎はおかしいなw」
そう談笑しながら、飲食するこいつらに人の心はあるのでしょうか?
中でも大文字屋は、カボチャばかりを食わせることで悪名高いようです。
今年の大河は消え物、食べ物の見栄えは随一でしょう。池波正太郎愛読者が悶絶しそうな江戸メシがお目見えします。
するとそこで障子がスパーン!と開き、乗り込んできた重三郎が「そのカボチャにすら難儀している!」と言い切ります。
主人に「帰(けえ)れ」と言われてもひかず、松葉屋に朝顔が死んだことを知っているかと問いかける重三郎。
飯がくえねえからだというと、りつという女将が「胸って聞いたよ」と答えます。肺結核を患っていたのでしょう。
「あっけなく病死するのは飯がくえてねえからだ!」
重三郎はめげずに、炊き出しでもして欲しいと告げ、このままじゃ女郎はどんどん減ると訴えます。
そうなりゃ客も減るし店も潰れる――そう訴えるものの、大文字屋が「女郎が死ぬのは悪くねえんだよ!」と突っぱねます。
河岸女郎なんざ呼出みてねえな格別の女でもない。どこにでもいる女は一切百問で股を開いているだけだと言い切るのです。
「んなもんな、どんどん死んで入れ代わってくれた方が客も楽しみなんだよ!」
「そりゃあまりにも情けなかねえですか。親父様たちは人じゃねえです! 人として……」
「あいにく私たちは忘八(ぼうはち)なもんでね」
これは儒教の八つの徳を忘れた外道をさします。
八徳とは『八犬伝』の玉でおなじみの【仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌】のこと。
これが出てくるだけ当時の日本人は進化しています。
例えば『光る君へ』の道長がスラスラ答えられるか?と言えば怪しいですし、『鎌倉殿の13人』の坂東武者など「なんだそれうめぇのか?」とでも返ってきそうなモンです。
「忘八」が出てくるだけで偉いんですよ。
本作の制作チームは『麒麟がくる』と同じです。あのドラマで光秀は、こうした儒教徳目がないと嘆き、それが広まりゆくことを「麒麟の到来」で示しつつ、終わりました。
とはいえ、麒麟がきても、地獄は続く。
冒頭でいみじくも稲荷が語った通り、別の戦が起き、別の炎が燃えているわけです。
「けど……けど、俺たちは女郎に食わせてもらってるじゃねぇですか! 吉原は女郎が神輿で女郎が仏! 俺ぁそうやって教え込まれましたぜ! いくら忘八でもそこだけはお題目突っ張んねえといけねえんじゃ……」
重三郎がそう返すと、頭を掴まれ引きずられ、階段から蹴り落とされるのでした。下手すりゃ首折って死にますぜ。
下の階では駿河屋の女将が饅頭を食べていました。女郎でなければ人前で食べても平気なんですね。
かくして重三郎は「うっせえんだよ、おめえ」と追い出されたましたが、このシーンには色々な意味で近代の萌芽が映し出され、かつ本作の世界観も凝縮されていたように思われます。
『光る君へ』から『鎌倉殿の13人』の中世は、そもそも倫理や徳目への理解が薄い。
その300年後にやってきた長い乱世を終え、朱子学を浸透させることを目指したのが『麒麟がくる』です。
その先はどうか?
江戸中期ともなれば、寺子屋で儒教倫理を学び、江戸っ子だってわかっちゃいます。
しかし実行に移すかどうかは別の話。
百万都市の江戸ともなれば、別の価値基準が生まれてきます。
資本主義の萌芽です。
重三郎は、倫理を忘れたと言い張る「忘八」相手に、経済の仕組みでもって反論する。
稼いでくれる労働者にはそれなりの待遇が必要だ。労働契約条件として、衣食住確保がある以上、食事を提供しないことはルール違反だと。
彼らは紛れもなく、人として進化してゆく途上にあります。
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