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【『べらぼう』感想あらすじレビュー第1回「ありがた山の寒がらす」】
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厠の男、田沼意次を推薦してくる
重三郎が毒付いていると、唐丸が「警動(けいどう)」とは何か?と聞いてきます。
吉原以外の非公認遊郭を取り締まることであり、重三郎は倫理ではなく、法を頼ろうとしました。
奉行所に訴え出て潰し、吉原の賑わいを取り戻そうというわけです。
しかし、奉行所は動かねえ!
名主の訴えでなければ聞かれなかったようで、廁でその顛末を唐丸相手にこぼしております。
クソだ!と罵倒していると、廁にいた男が「それはクソにご無礼ってもんよ。あいつらは屁!」と語りかけてきます。この大河、下ネタが好きだな、おい。
男曰く、クソは畑に撒けば肥料になるが屁はそれにもならない。確かに江戸時代ともなると、肥は換金できました。
『光る君へ』の舞台である平安時代中期は、肥が土の栄養になる因果関係がまだ見出せていない。そのため換金する発想が出てこない。ゆえに平安京には排泄物が放置されていました。そこから進化したのです。
警動してもらうならどうするのか?と重三郎が男に問い、吉原の苦境について愚痴をこぼします。
「じゃあいっそ、田沼様のところに行ってみるってのはどうだい?」
「ああ、田沼様」
「おう、ご老中のよ」
「ああ……ええっ!」
驚く重三郎。
男曰く、町場のもんの話でも聞いてくれるとか言ってるけど、おめぇさん、何者よ? 屁について語っているだけに『放屁論』でも書いているんで?
担いでないか?と重三郎がいうと、兄ちゃん担いでどうなんのかと返してくる男。たしかにその通り。
男はここで、田沼様肝入りの炭を売りつけてくるのでした。相当な変人ですね、男も、田沼も。
居ても立っても居られない重三郎は田沼屋敷へ向かい、駕籠から降りた男の跡をついていきます。
「和泉屋様〜ご無沙汰しております!」
吉原の馴染みですね。
重三郎は、図々しく荷物持ちをすると言い張り、偶然を装って無理矢理田沼屋敷へついていきます。
ずいぶん立派な屋敷ですが、これも収賄の成果か。
屋敷にはあの百川の仕出し弁当が積まれており、重三郎は一つ手に取ります。
それを見下ろすように、屋敷の庭では田沼意知が女相手に「なりませぬ」と言われても何かしております。
バカ息子は帯でも解いているのか?
と、時代劇ファンを騙しておいて、実際は百川の弁当を預けていました。無駄に太った親父が食うのではなく、女中たちに食べさせようという優しい心遣いです。
ここは印象的な場面です。
自分たちは百川の料理に舌鼓を打ちつつ、女郎には食わせない忘八よりもはるかに優しい。
しかし、どうしてこんな高級料理が余るほどあるのか? というと、田沼意次が収賄に励んでいるからともいえる。
息子が使用人にそれを与えることは、美談なのでしょうか?
政治家ならまず、民が飢えない政治をすべき――そう主張する人物が今後出てくることでしょう。
経済を重んじる田沼意次、贈賄は断らない
ここで和泉屋の前に、袴をつけていない意次が姿を見せます。
腰の具合を聞くあたり、彼のコミュニケーション力が伺えますね。
自分のような者のことまで覚えていてくれたのか!――そう相手を感動させることができるでしょう。
意次は、新たな産地での商いの件だと聞いていると、単刀直入に本題へ入ることを促します。面会者が多く、忙しいのでしょう。
すると和泉屋は「かの地ではよい肥ができるからお納めいただきたく」として、重三郎が壺を差し出します。
そのようなものを持ってくるな!と意次。肥やしなら相当臭いでしょうよ。
案の定、壷の蓋を開けると、中は黄金色の小判でした。なんという贈収賄ぶりよ。
「ふっ、これはこれは、実によう効きそうな肥じゃの」
「たわわに実りましょうぞ、山吹の実が。取り入れがなりましたら、相応の運上冥加はお納めいたします」
ここで重三郎が、割って入ります。
「恐れながら、吉原も運上冥加を納めております!」
突然の横入りに驚く和泉屋。重三郎は田沼様に聞いて欲しい話があると言います。
「手短に申せ」
重三郎は、ここで資本主義の倫理で主張します。
公認遊郭の吉原は、運上冥加を納めている。
一方で非公認遊郭は納めていない。
それなのに、その非公認のせいで吉原が圧迫されている。どう考えても道理にあわない。
「けいどう」をお願いしたい。
そう言われ、意次は断ります。吉原のためだけに「国益を逃すわけにはいかん」と言い切るのです。
意次が名前を聞き「蔦の重三」と確認します。
田沼意次と蔦屋重三郎の問答
意次は逆に問いかけます。
「江戸へ入る五街道沿いの宿場町が、一つでも潰れたらどうなる?」
交通網が滞ると理解する重三郎。意次は相手との問答で、力量を見定めているように思えます。
宿場町が一つ潰れれば、それにより大幅に利益が減り、国益が逸することになると続ける。裏を返せば、宿場が栄えれば莫大な国益が生まれるとも。
その宿場を栄えさせるのは何か?と問われ、ハッとさせられる重三郎。
「女と博打です」
求めていた答えが得られて納得し、宿場町から飯盛女の大幅な増加を求められて認めてきたと答える意次。
おかげで宿場は栄え、運上も増えている。
そうした国益を棒に振ってまで、吉原のためだけに「けいどう」を動かすわけにはいかないというわけです。
それならば岡場所だけでも取り締まって欲しいと食い下がる重三郎。
吉原だけ特別なのは危ねえ目に遭う女がいたからだといい、天下御免の色里が廃れたとあってはお上の威光に関わると返します。
すると反論に窮したのか。
意次は立ち上がり、重三郎の横に腰を下ろします。
百川は、吉原の親父たちが上得意だと言っていた。百川を得意とするほどの吉原が食えぬのは、岡場所や宿場のせいばかりではない。
「けいどう」を願う前に、忘八どもの取り分が多すぎるのだと指摘し、さらに言えば吉原に客が足を運ばないのは、吉原がそうするだけの値打ちがない場所に成り下がったからではないか?と本質を突いてきます。
重三郎は、女郎は懸命に務めていると返すも、ならば人を呼ぶ工夫が足りぬのではないか?と指摘する意次。
「お前は何かしているのか?客を呼ぶ工夫を」
思わず目が泳いでしまう重三郎。
すると意次が、和泉屋に商いの件は承知したと言いながら、立ち去ろうとします。
「田沼様……お言葉、目が覚めるような思いがいたしやした!まこと、ありがた山の寒がらすにございます!」
そう返す重三郎の声を聞きながら、意次は去ってゆくのでした。
今回のタイトルも回収し、堂々たる音楽が流れ、蔦屋重三郎の前半生、成り上がる過程の課題設定ができるわけですが。
この時点で危うい。
意次が答えに窮したのは「天下御免の色里の御威光」です。
彼も武士ですので、長谷川平蔵同様、公方様を持ち出されると弱い。
これも一種の「忠」ではある。
こういう倫理に訴えたらば重三郎は突破できるけれども、そうはなっていないように思えます。
少し詳しく考えてみましょう。
この世はすべて金、金、金…倫理はどうした?
意次と重三郎の両者は、経営破綻について話し合い、予算配分の不均衡と宣伝手法について意次は意見を述べました。
重三郎はその点に納得しているわけですが、結局、そこには「飢える女郎が哀れだ」という素朴な感情がありません。
『光る君へ』と比較しますと、道長が政治を変えたいと願ったのは、直秀の無惨な屍を埋めた時のことでした。
それが実現したかはさておき、憐憫で動いています。
そこから倫理がさらに進んで根付いたようで、それが資本主義の道理に上書きされつつある。
意次の理屈でいうと、国益のためなら女を犠牲にし、博打も認めて堕落も許容しろということになります。
金儲けできるなら全て良い。そう上塗りされてゆく。それでよいのかどうか。
意次がここで「国益」という単語を使うのは、適切なのかどうか。
これも「歴史総合」を思い出します。
彼らの生きる時代は、どうしたって「国益」を意識せねばならない局面に到達していました。
なにせ隣国の清は、世界の総GDPの三割を占めていた――そんな巨大な国を隣にして、チマチマと質素倹約してこの先、道があるのか? そう焦燥感に駆られたのが田沼意次の政治です。
それはそれで近代への目覚めではあるのだけれども、そうやって金を数えることで、昔ながらの倫理観は薄れ消える。そういう恐ろしい何かが見えてきます。
国益のために女を犠牲にするということも、もう一度考え直すべき課題といえるでしょう。
2020年大河ドラマ『青天を衝け』では、渋沢栄一と朝鮮についてほとんど触れずに終わりました。このことを再考する必要も感じます。
『べらぼう』は、あえてそんな近代以降の悪しき傾向を先んじて見出していると思えますが、韓国ではこんな嘆きがあります。
日本に支配されたことで、性的道徳が崩壊したのだと。朝鮮にも「妓生」(キーセン)という宴席に侍る女性はいました。しかし、あくまで芸を披露する名目があり、そこまで性的な規範が緩いわけでもなかった。
ところが渋沢栄一のような、幕末明治に芸者とたっぷり遊んできた日本人権力者は、宴席に侍る女なんてみんな日本の芸者と同じだろうと、性的な接待を当然のこととしてしまった。
こうした慣習が染み込んでしまい、事態は悪化したと指摘されているのです。
これについてはどういう反論があるか想像はつきますが、それは横にひとまず置きましょう。
近代日本が女性の性を外貨稼ぎに利用してきたことは、どうしたって否定できません。
「からゆきさん」と呼ばれた女性もいました。
まだ産業発展が十分でない明治時代、女性を海外に送り出し、性を売り物とすることで外貨獲得を目指し、それに従事した女性をこう呼んだのです。
第二次世界大戦敗戦後、米兵と腕を組んで歩く日本人女性も多く見られました。
政府主導で女性を集め、米兵をもてなすように仕向けたのです。米兵家族の反発もあり頓挫したものの、「パンパン」と呼ばれる私娼はおりました。
連綿と続けてきた国益のために女性を犠牲にする歴史を、そろそろ振り返ったらどうか?
この作品は、台詞の言葉選びからそうした挑発的なものを感じさせます。
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