平安京

平安京/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

794年の遷都から始まった平安京~当時の街並はどんな風に区画整理されていた?

延暦十三年(794年)10月22日は、桓武天皇平安京へ遷都をした日です。

「碁盤の目」のごとく整然と区画整理されたイメージを思い浮かべる方も多いであろう、この都。

実際に、右京と左京ではどんな違いがあったのか? 内裏はどんな場所だったか? などの疑問にスラスラ答えられる方は意外と少ないのでは?

2024年の大河ドラマ『光る君へ』のおかげで、すっかり身近になったこの平安京。

実際どんな場所だったのか――当時の様子を振り返ってみましょう。

 


3つのエリアに分かれた平安京

平安京は、まず大まかに分けて3つのエリアがあります。

・大内裏と内裏
・左京
・右京

現代の我々が「京の都」という単語を聞いたとき、前述の通り、碁盤状に整えられたキレイな道路をイメージされるかもしれませんが、遷都当時は、そうでもありません。

左京は鴨川、右京は桂川や天神川(紙屋川)の氾濫に苛まされ、綺麗な街を作るのが難しかったのです。

特に右京は発展が遅れ、当時の貴族層の中には「存在すら認識していなかったのでは?」という人もいます。

平安京/photo by 咲宮薫 Wikipediaより引用

一方で、平安京が「中国の都に倣って造られた」というのも有名ですね。

そのため、当初は左京を「洛陽」、右京を「長安」と呼ぶこともあり、京都を目指す「上洛」という言葉は、より発展していた左京のあだ名から来ていると思われます。

日記文学の世界では、大内裏と内裏、著者や親類縁者などの邸が主な舞台となり、その多くは左京の四条以北に存在していました。

もちろんすべての区画が大貴族の家というわけではなく、合間には庶民の小屋も多かったようで、当時作られた物語でも左京や右京に住む庶民の話が時折見られます。

次に大内裏と内裏を見てみましょう。

 


大内裏と内裏

内裏は天皇の住まい・后妃たちの住まい(後宮)・その関連機関が連なっていました。

大内裏は、内裏の周りにあったエリアで、官公庁が集まっていたところです。

全てが美々しい建物で整備されてたいかというとそうでもなく、政情に対する不満の現れとして犬の死体が投げ込まれたり、中宮の近辺に盗賊が侵入したりといった事件もままある場所です。

現代の皇居や官公庁ではちょっと考えられませんね。

大内裏の最も南に朱雀門があり、そこからメインストリートである朱雀大路が伸びていました。

朱雀大路を境目として、大内裏からみて左側(北を上として地図上では東側)を「左京」、右側(同じく西側)を「右京」と呼びます。

この左京・右京のつくりは、奈良時代の飛鳥京から代々の都に継承されてきたものとされています。

北から南へ向かうごとに「一条」「二条」……と区画の名がついており、それと同じ路の名前にもなっていて、最南が「九条」となります。

また、大内裏を挟んで北側に一条大路、南側に二条大路があり、この二本の道路は二条以南よりも間隔が開いていました。

大内裏を出て東には、今も遺構が残る「神泉苑」があり、その西に大学寮がありました。

大学寮とは貴族が残した官僚養成機関であり、『光る君へ』ではまひろの弟・藤原惟規が通っていたことで注目されましたね。

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源氏物語』の「夕顔」の帖では五条あたりの街並みを「雑然としていて見苦しい」と表現している一方で、六条御息所はその名の通り六条に屋敷を構えており、後に光源氏がそこを含めた四町(約4ha)もの土地に六条院を造りました。

このことからも「大邸宅と庶民の家が入り混じって建っていた」ということがわかります。

ちなみに東京ドームの建築面積が約4.7haですので、六条院がいかに大きな邸宅だったか、なんとなく想像できるのではないでしょうか。

 


東西で開かれた市場

七条大路の北側には右京(西)に西市、左京(東)に東市と呼ばれる市場がありました。

現代でいうところのスーパーマーケットやショッピングモールのような役割となりますが、「個々のお店が集まっていた」のでモールに近い感覚かもしれませんね。

左京のほうが発展していたこともあり、店舗の数も東市のほうが多く、ある時代を見ると東市では51軒、西市では33軒の店が営まれていました。

また、売買の価格などを取り締まりと記録をする「市司」という役人がおり、適正な商売が行われるよう努めていました。

商われていた商品は、布・糸・綿などの被服関連、薬、塩・干魚・生魚・餅などの食品、酒など。

主な客層は庶民や下級役人、大番役などで一時的に京都へやってきていた地方の人々などでしたが、時には大貴族に仕える家来がお使いに来ることもありました。

貴族層の結婚における必需品”三日夜の餅”など、私的な行事の準備をしに来ていたようです。

ひと月の内1日~15日が東市、16日~末日は西市が開かれ、市の門は正午ごろに開き、夕方には閉まったので、現代のお店より営業時間がかなり短いですね。

しかし、それも仕方ありません。

市の倉庫を狙う盗賊もたびたび出ていたとかで、防犯面から長く開けていられなかったのです。

紫式部日記』にも書かれている通り、中宮の近辺にすら賊が侵入してくる時代ですから、物資が豊富にある場所が狙われるのは当然ともいえるでしょう。

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