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羅城門(羅生門)
朱雀大路を下りきると、芥川龍之介の小説『羅生門』で知られる羅城門があります。
当時から漢字表記は「羅城門」「羅生門」の両方あったようで。
平安京の南端にあるので、本来は”都の正門”ともいうべき存在なのですが、実は9世紀頃から災害などで倒壊と再建を繰り返していました。
天元三年(980年)に嵐で倒れてからは放置されていたといいます。
道長の時代である寛弘元年(1004年)閏九月にはいったん再建が検討されたものの、実行されませんでした。
治安三年(1023年)6月には、藤原道長が法成寺の礎石の一部に使うため、羅城門の石を運ばせたという記録がありますので、この頃の羅城門は痕跡すらなかった可能性が高いですね。
小説『羅生門』の元ネタは、『今昔物語集』の中にある羅城門の話だとされていますので、その話ができた時期も
「山姥がいてもおかしくないおどろおどろしい場所」
という認識が広まっていたのでしょう。
羅城門の近辺には、当初「鴻臚館(こうろかん)」という施設もありました。
現代でいえば迎賓館のような場所ですね。
中国で来賓の応接を担当する官職を「鴻臚」と呼んでおり、その役所を「鴻臚寺」としていたため、それに倣って名付けられたとされています。
平安京ができて少し経った頃、弘仁年間(810~824年)に東寺・西寺を建立するために鴻臚館は移転されました。
移転後は、七条の朱雀大路をまたいで東鴻臚館・西鴻臚館の2つに分かれています。
渤海使を迎える鴻臚館
接待の相手は、主に渤海使でした。
渤海という朝鮮半島北部あたりにあった国の使者です。
渤海使は現在の石川県や福井県に到着・滞在した後、そこで京からの使者を待ち、彼らに伴われて鴻臚館までやってきていました。
到着後は、まず内蔵寮(くらりょう)と交易しました。
ここは皇室の財産管理などを受け持っていた役所でしたので、大陸の品で皇室の宝としてふさわしい品を購入したという感じでしょうか。
次に都の者、最後に都の外の者と取引を行っていました。
しかし、時代の流れとともに交易の頻度が減っていき、延長四年(926年)に渤海国が滅んだため、鴻臚館は使われなくなりました。
建物としてはしばらく残っていたようで、天徳元年の末(958年の頭)に菅原文時(道真の孫)が村上天皇に
「鴻臚館を復活させ、外交を復活し、文芸を振興するべきです」
と進言した記録が残っています。
このころ大陸では唐が滅び、五代十国時代の終盤あたりになっていましたので、この進言が容れられたとしてもなかなか厳しそうですが。
もう少し経つと宋が興ってくるものの、菅原文時は天徳元年時点で還暦が見えていたため、あまり長期的に構えていられなかったのでしょうね。
200年ほど後の平安時代末期になると、平清盛が日宋貿易で莫大な利益を得ますので、目の付け所は悪くなかったのではないかと思われますが……いかんせん時代が合いませんでした。
『源氏物語』の第一帖「桐壺」には、まだ機能していた時期の鴻臚館が登場します。
幼い光源氏が鴻臚館に滞在していた高麗の占い師のもとを訪れ、自身や子供たちの将来について予言されるシーンです。
紫式部は958年時点で寂れていた施設を登場させたということになりますね。
『源氏物語』の冒頭では「いつの帝の御代であったか(わからないが)」ということになっていますが、紫式部の時代にはなかった男踏歌などが描かれたりもしていますので、時代設定は950年代~980年代ごろなのかもしれません。
ちなみに鴻臚館の建物自体は鎌倉時代の初期頃まで残っていたようで、さらに余談を付け加えますと「鴻臚館」という名の施設は大宰府や難波にもありました。
難波の鴻臚館は早いうちに摂津国府に転用され、迎賓館としての役割は失われていました。
また、大宰府のものは防具などの保管場所にやはり転用されたようです。
★
そんなわけで、意外と栄えていないエリアがあったり、早くに廃れていた施設もそのまま残っていた平安京。
今回は街全体を俯瞰してお伝えしましたが、もっと生々しいというか、おどろおどろしい情報を以下の記事にまとめましたので、よろしければ併せてご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『謹訳 源氏物語』
ほか