大河ドラマ『光る君へ』で回を追うごとに人相が悪化していく藤原伊周。
第38回放送では、叔母の高階光子が、僧・円能を用いて呪詛を行っていたことが明るみに出るばかりか、最終的には伊周自ら呪符をバラまくような奇行に走っていた。
完全に正気を失ったあの姿には、視聴者の皆さんも言葉を失ったことでしょう。
いくら道長との出世争いに負けてはいても、我慢していれば敦康親王の即位だってある状況です。
一発逆転の目だって残されている。
なのになぜ、伊周はあのような愚行に走ってしまうのか。
いったい史実ではどうだったのか?
というと、まるで駄々っ子のように何度も問題を起こし、自ら勝手に落ちていく姿が浮かんできます。
伊周の転落を、呪詛事件と共に振り返ってみましょう。
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道長・彰子・敦成親王が呪われた
事が起きたのは、寛弘六年(1009年)1月末のことです。
中宮彰子と彼女が前年9月に産んだばかりの敦成親王を呪詛する厭符(えんぷ・まじないの札)が内裏で見つかり、道長も呪いの対象に入っていました。
厭符は道長邸に運ばれ、藤原行成にも見せられています。
それが、よほどおどろおどろしいものだったのか。行成の日記『権記』ではわざわざ「詳しくは記さない」と書かれています。
他の貴族も「恐れをなしてその場から退出した」とのことなので、よほど強烈な見た目だったのでしょう。
不思議なことに、これだけの重大事件でも当事者である道長の日記『御堂関白記』や、藤原実資の『小右記』にこの件のことは書かれていません。
『御堂関白記』は、この年1月下旬から2月分までまるまる記載がないので、ショックが大きすぎて、さしもの道長も筆を持てなかった可能性がありますね。
不可解なのは実資です。
日記の中では、道長が相手も全く遠慮せずに書き記すのに、なぜかこの件には触れていない。
小右記の簡易版である『小記目録』には「円能法師が左府(道長のこと)を呪詛した」とあるので、散逸しただけかもしれません。
状況からして首謀者は伊周か?
中宮とその皇子、さらには外祖父が呪われる――これだけの重大事件ですから、すぐに捜査は始められました。
すると同年2月に容疑者が見つかり、実際に呪詛した僧侶・円能や、陰陽師などが厳しい拷問で取り調べられます。
結果、以下のことが判明しました。
◆円能に呪詛を依頼したのは民部大輔・源方理(かたまさ/のりまさ)夫妻と、伊予守・佐伯公行(きんゆき)の妻・高階光子だった
◆計画が立てられた寛弘五年(1008年)12月頃のこと
源方理は藤原伊周の義兄弟です。
高階光子は名字からも分かる通り、伊周の母・高階貴子の姉妹でした。
どう見ても「真の首謀者は伊周だ!」と思われても仕方ない状況ですね。
呪詛は重大事件でもあり、死刑も検討されましたが、この時代に極刑は行われていなかったため、代替措置として以下の刑罰がくだされました。
・光子と方理は官位剥奪
・円能は禁獄
事ここに至って伊周の関与については証明されていません。
しかし、状況からして言い逃れできるようなものでもなく、伊周は、一条天皇の意向で朝参を停止されることとなりました。
一条天皇は失脚以前から伊周の言動に眉をひそめていたので、いったん許されたにもかかわらずこのような疑いをかけられた事に対して呆れたのかもしれません。
常に騒動の中心にいて、なにかと道長をライバル視してきた藤原伊周。
なぜ三人を呪ったのか?
長徳の変からこの呪詛事件までの動きを確認しながら、当人の事績を振り返ってみましょう。
自ら墓穴を深くしていく
長徳二年(996年)【長徳の変】で中央から追い出された伊周は、その後、一条天皇の母・東三条院詮子の快癒祈願のため赦免されました。
そして長保五年(1003年)には改めて昇殿を許されていたのですが……早くも寛弘四年(1007年)伊周・隆家兄弟による道長暗殺計画の噂が立っています。
こちらも『光る君へ』の中で描かれましたね。
劇中でも史実でも、現実には実行されずに終わりましたが、火のないところに煙は立たないというもの。
少なくとも当時の貴族社会において
「伊周たちは道長を恨んでいるから、どんな手段を使うかわからない」
と思われていたのでしょう。
これを受けて、一条天皇と道長は、いったん伊周をなだめるための手段を模索しました。
この時点でまだ彰子は皇子を産んでおらず、伊周の妹・定子が遺した敦康親王が一条天皇の唯一の皇子となります。
伊周を完全に排除してしまうと、敦康親王が立太子した場合に最も近い血筋の人がいなくなってしまう。
道長が代理になることもできなくはありませんが、血の近さ≒権力の強さだった時代ですので、できれば伊周を残しておきたかったのでしょう。
一条天皇からすると、亡き愛妃の兄でもありますしね。
ただし、伊周を座らせる席は空いていないというのが当時の状況でした。
顕光や公季は老齢に入っていたものの、本人が出家するなり病気なりで「辞職したい」と言い出さない限りは辞めさせられません。
そんなわけで、寛弘五年(1008年)1月に伊周を”大臣に准ずる”として特別扱いにし、名誉だけは復活させたのでした。
封戸(ふこ・領地みたいなもの)も与えられており、格としては大納言の上&大臣の下であり、決して低くはない扱いです。
むしろ”知らなかったとはいえ法皇暗殺未遂の容疑者”に対しては破格の待遇でしょう。
しかし伊周はそれでも不満だったのか、やがて『儀同三司』と自称するようになります。
これは中国の王朝で”官職はないが俸禄をもらい、朝議にも参加する資格を持つ”人を指していた言葉です。
その状況が伊周とほぼ同じだったため用いたと思われますが、この流れで自ら言い出すのは悪手にしかなりません。
「本当は私が大臣になるべきなのだ」
といった野心をほのめかしている……と思われても仕方ない状況です。
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