伊周による呪詛事件

藤原道長(左)と藤原伊周/wikipediaより引用

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伊周による「呪詛事件」道長・彰子・敦成を呪った一件はどこまで本当なのか?

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一条天皇も困り果て

寛弘五年(1008年)12月20日、敦成親王の誕生百日祝いの席では、頼まれてもいないのに「和歌序を書く」という行為に出ました。

本当は道長に命じられた行成が書くはずだったので、行成の面子を潰したことにもなります。

藤原行成の日記『権記』にあっさりと書かれていますが、気分を害したであろうことは想像に難くありません。

しかも伊周はこの和歌序で、敦成親王のことをわざわざ”第二皇子”と書き、

「第一皇子は私の甥である敦康親王なのだぞ」

と暗に主張しているのです。

伊周の主張が間違ってはいません。しかし、道長の孫である敦成親王の祝いの席でわざわざゴリ押すことでもありません。

これでは、敦康親王に同情していた人々も動きにくくなってしまいますよね。

一条天皇も祝いの席にいましたので、いたたまれない気分になったことでしょう。

喜怒哀楽をあまり表に出さない帝だったようですので、その場で叱責したりはしていませんが、鬱陶しく感じたはず。

一条天皇/wikipediaより引用

実際、この行為は多くの人々に批難され、伊周は自ら評判を下げる結果となりました。

まるで駄々っ子のように大人げない伊周。

呪詛事件が起こる直前にも周囲から気を遣われる一件がありました。

寛弘六年(1009年)年始の除目(人事)では、正二位に昇進しているのです。

一条天皇にしてみれば「昇格させてやるからいい加減大人しくしなさい」というメッセージとも取れるでしょうか。

下手なことをしなければ敦康親王にもチャンスは残されているようにも見えます。

そんなタイミングで伊周の近親者による呪詛事件が発覚するのですから「あいつ何考えてんだ!」と反感を買って当然。

呪詛計画が立てられたのは前年12月半ば=敦成親王の百日祝いの頃だったという供述も、より一層、伊周への視線を厳しくさせたでしょう。

当時、伊周はまだ36歳でしたし、道長は43歳かつ若い頃から病気がち。

道長が呪いとは関係なく病などで亡くなれば、伊周に運が向いてくる可能性もゼロではありません。

呪詛などという大罪に手を染めず、雌伏すべき時期だったのです。

それを待てずにこんな調子ですから、一条天皇としても「伊周一派を放置していたら、敦康にまで災いが及びかねない」と考えたでしょう。

そもそも一条天皇は伊周にアレコレされなくても、敦康親王を次の皇太子にする方法を模索していたので、迂闊なことをされるとかえって迷惑なのです。

実際、元々病弱だった一条天皇は、この件がよほど堪えたらしく、一時期はお手水の間(お手洗い)でへたり込むほど病んでしまっています。

敦康親王も同時期に体調を崩していました。唯一後ろ盾になり得る人が伊周でしたので、ショックが大きかったのでしょう。

結局、全方位に迷惑をかけただけで終わってしまったのです。

伊周がこの件に関与していたのか無実だったのか、実際のところはわかりません。

3ヶ月後には朝参を許されていますが、彰子が再び懐妊したことによる恩赦のようなものと思われます。

伊周はこの呪詛事件からおよそ1年後、寛弘七年(1010年)1月28日にこの世を去っているので、もう一度呪おうとしてもできなかったのかもしれませんしね。

 


道長の狂言説は?

呪詛事件の首謀者とされた人々は、その後、数年で許されました。

そのため、この事件のことを「道長による伊周排斥の陰謀だった」と解釈する向きもあるようです。

しかし、道隆存命中から目立っていた伊周の横暴な言動に対し、白い目を向ける人のほうが多数派でしたので、反道長派になってまで敦康親王を担ぐ人がいたかどうか、微妙なところ。

前述の通り、伊周が【長徳の変】をきっかけとして失脚し、その後、許されたのは一条天皇の母=道長の姉である藤原詮子が病気になったことによる恩赦でした。

つまり伊周のために赦免を願った=味方についた人が多かったわけではないのです。

配流先で死なれて怨霊になられても困る、という気持ちはあったかもしれませんが。

当時の道長にとって、最大の懸念は伊周周辺やその動きではなく、孫の敦成親王が健康に育つかどうかという点。

次に敦成親王が夭折した場合、彰子が再び皇子に恵まれるかどうかです。

もし皇子に恵まれなかった場合は、不本意でも道長が敦康親王を庇護する可能性は高まります。

そうなったら道長も積極的に伊周を排除したいと思うかもしれませんが、この事件が起きた寛弘六年(1009年)時点でそこまで考えるかというと判断しにくいところ。

むしろ、自ら進んで評判を下げていく伊周のことを、道長は内心「ありがたい」と思っていたかもしれません。

伊周派のクーデター未遂とも、道長の伊周派排斥計画とも取れるこの事件。

当事者たちがあまり書きたがらなかった一件でもあり、今後、新たな史料が発見された場合は、さらに注目を集めることになるかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】
朧谷寿『藤原道長 男は妻がらなり』(→amazon
倉本一宏/日本歴史学会『一条天皇(人物叢書)』(→amazon
服藤早苗『藤原彰子(人物叢書)』(→amazon
黒板伸夫『藤原行成(人物叢書)』(→amazon
国史大辞典
ほか

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