まひろに向かってききょうが声をかけます。
あんなことを一人でじっとりと考えていたのか?と驚きながら、その直後には「まことに根がお暗い」と批判めいた言葉を続ける。
そして、グイグイとまひろに迫るのです。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
清少納言、『源氏物語』を読む
「根が暗いのはわかっています」
ききょうが放った先制パンチは、まひろにするりと躱されました。自覚と悟りのある隠キャは、そういうことを言われても動じませんよね。
続けて、ききょうは「光る君は困った男だ」と批判。キャラクターにダメ出ししつつ、玉鬘へのセクハラ三昧に呆れ果てたと具体例を出します。
例えば「私は、なんか嫌!」と、ふわっとしたフィーリングだけで語っても攻撃力不足でしょう。具体例をあげてこそ批判は刺さる。
そういう困った男を物語の主役にして、男のうつけぶりを笑いものにするなんて、まひろらしくて素晴らしいと貶し、褒め、貶してゆく。
作品としては良くても作者としては性格サイテーだろ!
そういう含みはどうしたって感じさせますね。
ききょうの論点はぶれていません。あんな物語を書く奴は性格がしみじみと悪いと見抜いています。
そのうえで、まひろの漢籍知識、世相を批判し物語に反映させる技量は褒める。これほど卓越した技は褒めておかないと、かえって自身の名が廃りますからね。
しかし、まひろはあくまでしれっとしている。
「手厳しいききょう様にお褒めいただいて嬉しいです」
「私は手厳しいでしょうか?」
そう聞き返すききょうですが、ええ、毒舌にもほどがあるでしょう。
まひろにしても、印象論で返すのではなく、以前左大臣のことを人気もやる気もないと言っていたことを持ち出してきました。
いちいち過去の言葉を持ち出すのって、本当に鬱陶しいですよね。今ならスマホのメモに記録していそうです。
しかし、ききょうもあっさりと、まことに見る目がなかったと認めます。
弱点を自覚したら、変に否定して揉めるより、先に進んだ方がよいこともありますしね。
ところがまひろは、さらに恐ろしいことを言い出します。なんと「ききょう様のような才気あふれる方が藤壺にいたらもっと華やかになる」と、スカウトじみたことを言い出すのです。
これはどう答えても相手に打撃を与えられる、巧みの技といえる策でしょう。
まひろはしれっと謙遜できるけれども、ききょうはそうではない。ここで藤壺に行こうと言おうものなら、職場の先輩ヅラをされかねない。
一方、断っても「私と知恵比べする時間がないのでしょうか?」という願意を含めてニヤリとされかねない。断ることまで見越していたとも思えてきます。
ききょうの忠義
まひろのスカウトに対し、ききょうは、自分自身の素直な忠義を見せます。
亡き皇后定子の身内を支えるために生きていると動機を語るのです。
竹三条宮で脩子内親王に仕えていく。今日だって敦康親王のご様子を伺いにきたと続けました。
咄嗟の言い訳にしては筋道が通っている。ここを突き崩すことは難しいでしょう。
まひろも素直に認めます。
すると今度は、ききょうが核心を突くような議題を持ってきました。
中宮様がご自身の皇子を産んだあと、敦康親王を藤壺に置くのはなぜなのか?
敦康親王を大切に思っているからだとまひろが返すと、ききょうはさらに煽ってくる。
「そのような綺麗事を、源氏の物語を書いたまひろ様が信じているとは思えませんわ」
「中宮様はそういうお方で、帝も中宮を信じて託しているのです」
「そうですか」
ききょうがそれを認めるのは、中宮の威信を理解したようで、キッパリと言い切ります。
いかなる世になろうとも、皇后様が残した灯火を守り続ける。私の命はそのためにある。
ききょうは幸せな人だと思いました。
何かのために命を賭けられるなんて、素晴らしいことです。清少納言は『枕草子』の作者であり、作品の印象からか、軽妙どころか軽薄という批判すらあります。
そんな才女を、忠義の体現者にする。全く大したものです。ききょうはここで再度命を吹き込まれたように思えます。
そんなききょうは、まひろに『源氏物語』を書いた理由を問いかけます。
左大臣に頼まれて、帝の心から『枕草子』を消してくれと頼まれたのか、亡き定子様の輝きを亡きものとするためにそうしたのか?と問い詰めるのです。
あらためて、しれっとした顔で、帝の御心をとらえるような物語を書きたいと思ったのだと返すまひろ。
ききょうは、いよいよ憎しみを顔に激らせました。
「私は腹を立てておりますのよ、まひろ様に。『源氏の物語』を恨んでおりますの」
渾身の一撃を叩き込む。
しかし、それを受け止めるまひろは、策士として器が違う。ここであしらって、後に『紫式部日記』で容赦なく叩くわけです。
この場面は見ていて辛いような、思い当たるところがあるような……私の個人的な経験をここにつらつらと書くことは控えたいようで、思い当たるところはあります。
私はききょうタイプと相性が最悪です。こちらから嫌いになる前に、あちらが怒って絶交宣言をしてくることがあまりに多いのです。
なぜなのか? と悩んでいたこともありましたが、おかげで読み解けたような気がします。
まひろの言い分
この場面について、ファーストサマーウイカさんのインタビューも読みました。
その通りだな、よい役の解釈だな。そう思いました。ききょうからすれば、友情崩壊です。
これだけききょうが定子を崇拝しているとわかっておいて、あんな批判を書くとはどういうこと! あんたは友情を踏み躙ったワケ?
そう怒るのは当然といえましょう。
ただ、まひろにだって言い分はある。
ききょうにしても、まひろが大好きな道長の悪口を言っていました。友達なら、好きな者の悪口を言ってはいけないルールであれば、ききょうだって違反している。
もちろん彼女はまひろと道長の関係性を知らないので、仕方ないところではありますが。
そう割り切りつつも、まひろの中では減点一点と判断されていても不思議はないでしょう。
まひろとききょうの方向性の違いも、わかりきっていました。
ききょうが定子の“光”だけ書くと言い切ったとき、まひろは”陰”も描くべきではないかと反論しました。
そこで議論をすり合わせるならばともかく、ききょうはムッとして、まひろの理論を否定するだけ。
話し合いを拒否するなら、作品で示してどちらを正しいか競うこともやむなしではないですか。
同調か、賞賛だけを求めて、反論や議論を認めない――そんな歪な友情は成立しないでしょう。
あのときまひろはおとなしく黙ったようで、減点をしていても不思議はありません。
そもそも友人に対し、同調と称賛ばかりを求めるのは不健全です。相手はロボットじゃないのです。
両者ともに、漢籍教養がある。
漢籍に出てくる定番として【諷諫】(ふうかん)があります。たとえ話をして、諌めることです。
主君が酒宴を開いて盛り上がっているとする。
するとため息混じりに「あの酒池肉林を楽しんだ紂王も、こんなノリだったんですかねえ」という。
言外に「こんな馬鹿騒ぎはあの暴君である紂王のようだ。恥を知れ!」と込めているわけです。
『源氏物語』の「桐壺」からはそういう意図を読み解ける。
帝が定子に執心したからこそ、結果的に破滅に追いやってしまったのではないか。そう諌めていると言えるのです。
まひろは「ききょう様ともあろうお方が【諷諫】もわからないのですか?」と反論できるワケですね。
あなたの漢籍教養は、所詮、「香炉峰の雪」と聞いて御簾を捲り上げるような、そんな軽薄さでしか表現できないの? そう考えるとすごい煽りです。
まひろは『源氏物語』を書くことで、「お前の完敗だ!」と突きつけたようなもの。
両者が友人であったという出発点から考えると、あまりにおそろしい結末といえます。
そりゃ、ききょうは、あんな顔になりますよね。
まひろの恐ろしいところは、そうやって鎬を削ってこそ真の友情ではないか?とすら考えていそうなところに思えます。
まひろとしては、あそこまで煽ったら決裂は当然にせよ、自分からその札を切るつもりはなかったようにも見える。そうなれば結果的に相手から絶交されますよね。
作品と人格を完全に切り離して見ているまひろ。
しかし、そう簡単に割り切れない人もいる。
私も思い当たるところはあります。友人が大好きだとうれしそうに語るドラマをきつい言葉で語るとき、その友人の顔が思い浮かんで、少し落ち込むこともあります。
好きな役者がしょうもないドラマに出ていると、心が千々に乱れます。
しかし、一秒後には忘れる。
好きな役者や作家がしょうもないことをやらされているとき、皆さんはどう考えますか。
「推しが動いているだけでも尊い! どんなひどい作品だろうと褒めなくちゃ!」
「私の推しになんてことをさせるんだ! これはこれ、それはそれ、駄作は叩く!」
どちらを取るか?
というと、ききょうは前者、まひろは後者じゃないかと私は思います。
そりゃ、相性は悪いでしょう。
互いの違いを認めることもできないだろうし、距離を置いてほどほどに付き合うしかありません。
※続きは【次のページへ】をclick!