源氏物語

紫式部(土佐光起・画)/wikipediaより引用

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『源氏物語』が男性貴族にもウケたのは紫式部の洞察力がズバ抜けていたから?

寛弘五年(1008年)11月1日は、文献上に初めて『源氏物語』が登場したとされる日です。

この日、藤原公任が紫式部のいる局(部屋)の近くまで来て「このあたりに若紫はいらっしゃいませんか」と戯れたことが『紫式部日記』に書かれています。

「若紫」は源氏物語の主要ヒロイン・紫の上のことです。

なので紫式部は「光源氏もいないのに、紫の上がいるわけがない」とスルーしたそうですが。

別にこれは、公任が「二次元と現実の区別がつかない」人だったというわけではなく、自分の教養を誇示するための言動でした。

公任という人は多才な反面、口が軽すぎるという大きな欠点も持っていました。

その代表例がこの「若紫は~」と「三船の才」という話です。

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」/wikipediaより引用

 


数多ある恋愛小説からなぜ源氏物語が?

「三船の才」とは、あるとき、藤原道長が主催した宴のエピソードからきています。

”池に三つの船を浮かべ、それぞれに和歌・漢詩・音楽に秀でた人を乗せ、作品を競う”という遊びを行い、公任は和歌の船に乗って、見事な歌を詠みました。

しかし公任は満足せず

「漢詩の船にしておけばよかった。この歌と同じくらいの出来の漢詩を詠んでおけば、私の評判はもっと上がっただろうに」

と言ったとか。

自信がありすぎて鼻につくというか呆れ返るというか。

現代の知名度でいえば、公任は紀貫之などには遠く及びませんしね。

藤原公任(月岡芳年『月百姿』)/wikipediaより引用

閑話休題。

そんな感じの人なので、公任はいつものノリで「今、話題のあの小説の作者がこの辺にいると聞いて」とふざけたのでしょう。残念ながらスベりましたが……。

しかし、ちょっと不思議に思いません?

いくら「あはれ」を尊ぶ時代とはいえ、源氏物語のように恋愛を主題とした小説が、なぜ”男性に”読まれたのか。

平安時代の恋愛小説は他にもあります。いずれも源氏物語ほどの知名度や人気はありません。

しかも、同作は、日本文学史上屈指の大長編です。

当時、新しい物語を知るには、自分で書き写すか、写本を手に入れるか、誰かから又聞きするくらいしか手段がなく入手は困難。

そんな苦境をものともしない勢いで広まったのです。

 


なぜ男性にも好まれたのか?

なぜ、源氏物語が男性にも好まれたのか?

それは、このお話が当時の男心をリアルに描いていたからではないでしょうか。

源氏物語といえば「主人公・光源氏と恋人となった女性達の話」と紹介されることが多いですよね。

しかし、よくよく見てみると、政争や男同士の友情など、男性を中心としたシーンもかなりの数にのぼり、中には、現代の男性にも共感を得られそうなシーンが序盤にあります。

俗に「雨夜の品定め」と呼ばれる場面です。

帖(じょう・源氏物語における“章”のようなもの)の名前としては、「箒木(ははきぎ)」の一部。

一般的に「光源氏を始めとした若い公卿たちの恋愛談義」として紹介され、サラっと流されがちなところですね。

しかし、ここに出てくる公卿の発言を一つ一つ目に留めてみると、かなり興味深いものがあります。

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