藤原彰子

『紫式部日記絵巻』より/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

藤原彰子は紫式部や一条天皇と共に父・道長を盤石にした功労者だった?

2024/10/02

承保元年(1074年)10月3日、藤原彰子が亡くなりました。

少し前までは“藤原道長の長女”という言い方のほうが馴染み深かった彼女ですが、最近は見上愛さんの笑顔を思い浮かべるほうが多いでしょうか。

ご存知、大河ドラマ『光る君へ』で話題の女性であり、現在は後一条天皇となる敦成(あつひら)を産んだことで注目されましたね。

史実では、この後、もう一人の後朱雀天皇となる敦良(あつなが)にも恵まれる彼女。

まさに道長の天下を不動にした功労者ですが、彼女自身はどんな女性だったのか。

藤原定子が産み彼女が養育した敦康親王を排除した父親とはいかなる関係だったのか?

藤原彰子の生涯を振り返ってみましょう。

 


父は左大臣 母は宇多源氏 トップの血筋

藤原彰子は永延二年(988年)、父・藤原道長と嫡妻・源倫子の長女として生まれました。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

正暦元年(990年)に着袴を行って世間にお披露目されると、その後は「后がね」として育てられていきます。

「后がね(きさきがね)」とは、将来の皇后候補として見なされた娘のこと。

藤氏長者(とうしのちょうじゃ)である父方にせよ、宇多源氏の血筋である母方にせよ、いずれもトップクラスの身分ですので、むしろそうならないほうが不自然だったでしょう。

大河ドラマ『光る君へ』では、両親が娘の入内を望んでいなかった反面、周囲の公卿たちは中宮定子を敬遠していたせいか、道長の娘に期待しているような様子が表現されていましたね。

残念ながら、幼い頃の彰子に関する記録は多くありません。

ただ、入内するまでの間に、彼女にとっても重大な出来事が起きていたので、あらためて確認しておきたいと思います。

①正暦二年(991年)伯母である藤原詮子が出家して東三条院となった

→史上初の女院であり、彰子にとっての先例のひとつとなる

②正暦五年(994年)から翌年にかけて 九州~京都の範囲で疫病が大流行し、貴族層でも死者が多く発生

→長く糖尿病を患っていた関白・藤原道隆やその跡を継いだ藤原道兼も数日で亡くなり、道隆の嫡子である藤原伊周と藤原道長の対立が始まる

正直、ここまでならよくある対立であり、その後の政争も長引いたかもしれません。

しかし、です。直後に起きたのです。あの大事件が。

 


長徳の変

大事件とは他でもありません。

大河ドラマ『光る君へ』でも大々的に描かれた【長徳の変】です。

③長徳二年(996年)長徳の変で伊周と弟の藤原隆家が失脚

→伊周が女性の家に通おうとしたところ男性らしき影があり、その後、隆家が矢を射かけた結果、実は花山法皇だった……というとんでもない事件が勃発

→直後に乱闘となり、伊周・隆家側は、花山法皇の従者二人を殺してその首を持ち帰るという乱暴ぶりだった

長徳の変は当初、大事件にはならない可能性もありました。

矢を射掛けられた花山法皇としても、出家後に女性のもとへ足を運んでいるのはバツが悪い話だったので、一時期は秘密にされたのです。

花山天皇の肖像画

花山天皇/wikipediaより引用

しかし、死者まで出る乱闘騒ぎに発展してしまえば、実際は隠し切れない……しかも、定子の兄弟である伊周と隆家が同じ場にいたのですから、中関白家にとっては絶体絶命のピンチとなります。

実はこの事件の以前(父の道隆が関白になった頃)から、伊周は周囲に反感を買う振る舞いするなど、増長しきっていたのでしょう。

結局、この一件をキッカケに定子は髪を落として出家し、その後、程なくして娘を産みますが、一条天皇も定子の兄弟まではかばいきれませんでした。

この長徳の変こそ、藤原彰子にとっても非常に大きな事件だったと言えるでしょうか。

というのも、藤原定子の出家と中関白家の没落により、彰子の入内と立后の下地が完全に作られたのです。

 

長保元年(999年)11月に入内

定子が出家した後、一条天皇のもとへ入内した娘たちは他にもいました。

藤原公季の娘・義子や藤原顕光の娘・元子、そして藤原道兼の娘・尊子です。

彼女らは、いずれも子供に恵まれません。

こうして目まぐるしく時勢が動いていく中、藤原彰子は赤染衛門などから宮中のしきたりや后としての心構え等を教わっていったのでしょう。

長保元年(999年)2月に「裳着の儀」を終え、大人の仲間入りを果たした彰子のため、本格的な入内準備が始まります。

有名なのは、入内の調度品として準備された「和歌屏風」でしょうか。

道長の依頼により、多くの公卿が和歌を提供して屏風に貼られ、中には花山法皇のものまでありました。

立場上、花山法皇の御作は「詠み人知らず」として扱われたものの、大事であることには間違いなく、藤原実資は「聞いたことがない」と日記『小右記』で痛烈に批判しています。

藤原実資

藤原実資/wikipediaより引用

そして同年11月、ついに彰子は入内します。

このとき母の源倫子も付き添って宮中へ行っていましたが、実は倫子自身が懐妊中の身であり、翌月に藤原威子(いし/たけこ)を出産しています。

当時の倫子は36歳です。

現代の高齢出産でも35歳が基準なので、医療が未発達だった平安時代にそれを成し遂げた倫子の健康ぶりがわかりますね。

しかし最も注目すべきは定子でしょう。

彰子の入内と同じ月に、彼女は一条天皇の唯一の皇子となる敦康親王を産んだのです。

敦康親王についての詳細は以下の記事にありますが、

敦康親王
敦康親王(定子の長男)の不憫な生涯|一条天皇の第一皇子は二十歳で散る

続きを見る

生まれた時点では、中関白家にとっては一発逆転の要素となる皇太子候補です。

しかも定子は、この後も一条天皇の寵愛を受け続け、再び懐妊して長徳二年の末にまた別の子に恵まれます。

今度は女児(媄子内親王)でしたが、定子が尼姿であることは変わりありませんでした。

 


道長の圧力で一帝二后体制へ

入内した藤原彰子は、この時点でまだ数えで12歳です。

しかし、裳着をしたからには成人であり、入内したからには皇子を産むことが第一ですから、定子の立て続けの出産にプレッシャーも感じたことでしょう。

一方で周囲の公卿たちは定子と一条天皇に対して良い感情は抱いていません。

一条天皇の肖像画

一条天皇/wikipediaより引用

何事も先例を重んじる貴族社会で出家した中宮が子を産むなど言語道断であり、他の女御たちも懐妊していなかったため、道長にとっては彰子を後押ししやすい状況ではありました。

一体なにをしたのか?

というと、道長は彰子の立后を画策するのです。

当時、蔵人頭(天皇の秘書官長)を務めていた藤原行成を通じて一条天皇に訴えかけ、彰子の立后が進んでゆきます。

具体的には、彰子が中宮となり、もともと中宮だった定子を皇后としました。

歴史の教科書でも注目されやすい【一帝二后】の成立ですね。しかし……。

無理がたたったのか、定子は第三子である媄子内親王の出産時に後産が下りず崩御してしまうのです。

枕草子絵詞の藤原定子

枕草子絵詞/wikipediaより引用

そのため一帝二后だった時期はほんの数ヶ月のことであり、彰子とは参内していた期間が重なっておらず、互いに避けていた印象があります。

彰子も中宮になったからと言ってすぐに懐妊とはならず、その前に一つの大仕事を任されました。

 

定子と一条天皇の遺児・敦康親王を養育

藤原彰子の大仕事とは、定子と一条天皇の遺児である敦康親王の養育でした。

もともと定子の崩御後は、その実妹である御匣殿(みくしげどの)が敦康親王を養育していたのですが、彼女も亡くなってしまい、彰子が次の養母役となったのです。

始めこそ彰子と敦康親王の二人は別居暮らしでしたが、後に彰子の御殿(飛香舎=藤壺)で同居するようになると、姉妹の内親王たちと一緒に童相撲の見物などをしている記録もあり、良好な関係をうかがわせます。

まだ年若い彰子にとっては良き経験だったことでしょう。

しかし、道長としては、何としてでも彰子自身に男児が生まれて欲しい。

そうでなければ敦康親王が即位して、中関白家が隆盛を取り戻す可能性も無くはない。

そのためでしょうか、道長は寛弘元年(1004年)の末頃から、藤原彰子の皇子誕生の祈願を始めていたようです。

ところが、です。彰子が身籠る前の寛弘四年(1007年)、またまた源倫子が四十四歳で末娘・藤原嬉子を出産するのですから、心中複雑だったことでしょう。

そこで道長も、紫式部や赤染衛門らにサロンを形成させたり、『源氏物語』を餌に一条天皇を呼び寄せるなど、色々と彰子の妊活フォローを進めます。

状況を考えれば一刻も早く彰子に懐妊して欲しい――。

そんな願いが通じたのか、寛弘五年(1008年)9月、彰子は待望の第一子を出産したのでした。

 

敦成親王に続いて敦良親王も産む

藤原彰子は初産だったこともあってか。

30時間以上もかかった難産を乗り越え、生まれてきた第一子は男児の敦成親王(あつひらしんのう・後の後一条天皇)でした。

この出産前後の様子などを記したのが『紫式部日記』です。

紫式部は出産間近でも落ち着いた様子の彰子を褒め称えたり、同僚の女房たちとハラハラしながら見守ったり、あまりの難産ぶりに心配して同僚と一緒に泣いてしまったり。

非常に生々しい様子が現代にまで伝わっています。

紫式部(画:土佐光起)

紫式部(画:土佐光起)/wikipediaより引用

しかも、その幸運は翌年まで続きます。

寛弘六年(1009年)にもう一度、彰子が懐妊すると、同年11月25日、彼女にとっての次男である敦良親王(あつながしんのう・後の後朱雀天皇)を産んだのです。

前回とは打って変わって安産だったようで『紫式部日記』であまり触れられていないのですが……欠損してしまったのでしょうかね。

娘から立て続けに二人の皇子が産まれ、道長の権威はさらに強まりました。

一方で、窮地に陥ったのが、彰子の手元で育てられていた定子の子・敦康親王です。

母后の定子は既に故人であり、その兄である伊周は「縁者が彰子と敦成親王を呪詛した」という疑いで失脚していました。

そしてその伊周は寛弘七年(1010年)1月に死去。

母方の権威が何よりも重視されるこの時代、敦康親王はたとえ立太子→即位したとしても、右腕となれる人物がいないという状況になってしまいます。

こうした状況を受け、道長は、藤原彰子の周辺を固め、そして、彰子本人も動き始めました。

実は彼女、伊周の次女に女房勤めを要請していたのです。

いったい何のために?

 

不遇な女性のシェルターだった?

当時は「高貴な身分の女性が宮仕えに出るのは好ましくない」とされていた時代。

伊周も「今は帝や太政大臣の娘でも出仕するようになっているが、私の娘は決して面目を潰さないように」という遺言を残していました。

藤原伊周

藤原伊周/wikipediaより引用

しかし、もはや敵無しの道長や彰子の意向には抗いきれません。

伊周の次女は寛弘七年(1010年)頃に出仕して「師殿の御方」と称される女房になると、その後は「周子」と呼ばれ、寛仁二年(1018年)には従五位下の位を受けています。

また、伊周の孫にあたる娘も彰子に仕え、彼女は「中将三位」と呼ばれました。そこには一条天皇の意向もあったとされます。

他にも、花山法皇の皇女や、清少納言の娘、あるいは紫式部の娘・大弐三位や、和泉式部の娘・小式部内侍など彰子の元にいました。

いかがでしょう?

こうした状況は一見すると「勝者が敗者を召し出して意地悪をした」ように見えなくもありません。

特に伊周の娘や孫たちの点だけ見ると、道長と彰子は「なんて傲慢な父娘なんだろう」という印象を持たれる可能性もあります。

しかし、これは完全に私見なのですが。

「師殿の御方」がきちんと叙位されていることや、花山法皇の皇女などいわゆる「訳アリ」な女性もいたことを考えると、「不遇な女性のシェルター」という側面もあったのではないでしょうか。

道長はともかく、彰子には女房たちへの気配りがあったように感じてなりません。

 

頼通が摂政となり姉弟で政治を進める

中宮としての役目を無事に果たし、順風満帆かに見えた藤原彰子。

ところが「禍福はあざなえる縄の如し」とはよくいったもので、次男の敦良親王を産んだ2年後の寛弘八年(1011年)5月、一条天皇が病に倒れると、翌月には崩御という悲しみを味わいます。

倒れた時点で一条天皇は、第一皇子の敦康親王を皇太子にする望みを捨てていませんでした。

前述の通り、その実母は藤原定子です。

彰子も前々からその意向を聞いていたのではないかと思われます。

しかし現実は、一条天皇の思い通りになるものではありません。

蔵人頭(天皇の秘書官長)を長年務めていた藤原行成に説得されると、一条天皇は敦康親王の立太子を諦めたといいます。

行成は道長の意向を受けていたとされ、それを知った彰子は怒りを覚えていたようで……。

それでも政治経験の浅い彰子では、父を止める事はできません。

一条天皇の次は、道長を外戚に持たない三条天皇であり、新たな皇太子には彰子の長男である敦成親王が立てられました。

三条天皇の肖像画

三条天皇(居貞親王)/wikipediaより引用

この後しばらく三条天皇と道長の政争が繰り広げられ、彰子の存在感が増してくるのは、三条天皇が譲位して、敦成親王(あつひらしんのう)が後一条天皇となった後のことです。

敦成親王は幼少の身でしたので、道長が摂政となり、彰子も母后として権勢を振るうようになりました。

藤氏長者(藤原氏の代表者)と摂政の座は、間もなく彰子の弟である藤原頼通へ引き継がれますが、頼通は彰子の意向を重んじたため、まるで彰子が母后と摂政を兼ねているかのような状態になります。

 

白河天皇の時代まで生きた

自身の子供が即位して、ますます忙しくなっていく藤原彰子。

寛仁二年(1018年)に太皇太后を経て、万寿三年(1026年)に出家をすると、伯母の詮子に倣って「上東門院(じょうとうもんいん)」の院号を与えられました。

上東門は道長の本邸ともいえる土御門第の異称で、彰子はこちらにいることも多かったため、院号にそのまま使われたようです。

この時期になると彰子にも老いが忍び寄って来ますが、それよりも先の長元九年(1036年)に長男である後一条天皇が、寛徳二年(1045年)には次男である後朱雀天皇が崩御。

さらには孫の後冷泉天皇が治暦四年(1068年)、後三条天皇が延久五年(1073年)と次々に崩御してゆきます。

平均寿命が非常に短かった時代です。

長生きはめでたいことではあれど、息子どころか孫にまで先立たれるとなると、深い悲しみを味わったことでしょう。

彰子の長寿祝いのタイミングも多々ありましたが、ほとんど行われていません。

また、藤原北家嫡流出身の姫たちが皇子を挙げられなかったこともあって、時代は徐々に移り変わっていきました。

承保元年(1074年)に彰子が崩御した際の天皇は、ひ孫の白河天皇です。

後に院政を始める人物としてよく知られた存在ですよね。

白河天皇の肖像画

白河天皇/wikipediaより引用

つまりは彰子の死が藤原北家の失権を象徴していた――というのも、あながち言い過ぎではないような気もします。

彰子の足跡は、これ以降の皇室や朝廷において、先例として権威付けの根拠となり、その存在は今日まで決して無視できないものになっています。

紫式部日記』の中で「おっとりとしたお嬢様」といった描かれ方をしている彰子。

類まれな長命と後世にまで影響を及ぼす存在にまでなるとは、さすがの紫式部も想像できなかったことでしょう。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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