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【藤原彰子】
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道長の圧力で一帝二后体制へ
入内した藤原彰子は、この時点でまだ数えで12歳です。
しかし、裳着をしたからには成人であり、入内したからには皇子を産むことが第一ですから、定子の立て続けの出産にプレッシャーも感じたことでしょう。
一方で周囲の公卿たちは定子と一条天皇に対して良い感情は抱いていません。
何事も先例を重んじる貴族社会で出家した中宮が子を産むなど言語道断であり、他の女御たちも懐妊していなかったため、道長にとっては彰子を後押ししやすい状況ではありました。
一体なにをしたのか?
というと、道長は彰子の立后を画策するのです。
当時、蔵人頭(天皇の秘書官長)を務めていた藤原行成を通じて一条天皇に訴えかけ、彰子の立后が進んでゆきます。
具体的には、彰子が中宮となり、もともと中宮だった定子を皇后としました。
歴史の教科書でも注目されやすい【一帝二后】の成立ですね。しかし……。
無理がたたったのか、定子は第三子である媄子内親王の出産時に後産が下りず崩御してしまうのです。
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そのため一帝二后だった時期はほんの数ヶ月のことであり、彰子とは参内していた期間が重なっておらず、互いに避けていた印象があります。
彰子も中宮になったからと言ってすぐに懐妊とはならず、その前に一つの大仕事を任されました。
定子と一条天皇の遺児・敦康親王を養育
藤原彰子の大仕事とは、定子と一条天皇の遺児である敦康親王の養育でした。
もともと定子の崩御後は、その実妹である御匣殿(みくしげどの)が敦康親王を養育していたのですが、彼女も亡くなってしまい、彰子が次の養母役となったのです。
始めこそ彰子と敦康親王の二人は別居暮らしでしたが、後に彰子の御殿(飛香舎=藤壺)で同居するようになると、姉妹の内親王たちと一緒に童相撲の見物などをしている記録もあり、良好な関係をうかがわせます。
まだ年若い彰子にとっては良き経験だったことでしょう。
しかし、道長としては、何としてでも彰子自身に男児が生まれて欲しい。
そうでなければ敦康親王が即位して、中関白家が隆盛を取り戻す可能性も無くはない。
そのためでしょうか、道長は寛弘元年(1004年)の末頃から、藤原彰子の皇子誕生の祈願を始めていたようです。
ところが、です。彰子が身籠る前の寛弘四年(1007年)、またまた源倫子が四十四歳で末娘・藤原嬉子を出産するのですから、心中複雑だったことでしょう。
そこで道長も、紫式部や赤染衛門らにサロンを形成させたり、『源氏物語』を餌に一条天皇を呼び寄せるなど、色々と彰子の妊活フォローを進めます。
状況を考えれば一刻も早く彰子に懐妊して欲しい――。
そんな願いが通じたのか、寛弘五年(1008年)9月、彰子は待望の第一子を出産したのでした。
敦成親王に続いて敦良親王も産む
藤原彰子は初産だったこともあってか。
30時間以上もかかった難産を乗り越え、生まれてきた第一子は男児の敦成親王(あつひらしんのう・後の後一条天皇)でした。
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この出産前後の様子などを記したのが『紫式部日記』です。
紫式部は出産間近でも落ち着いた様子の彰子を褒め称えたり、同僚の女房たちとハラハラしながら見守ったり、あまりの難産ぶりに心配して同僚と一緒に泣いてしまったり。
非常に生々しい様子が現代にまで伝わっています。
しかも、その幸運は翌年まで続きます。
寛弘六年(1009年)にもう一度、彰子が懐妊すると、同年11月25日、彼女にとっての次男である敦良親王(あつながしんのう・後の後朱雀天皇)を産んだのです。
前回とは打って変わって安産だったようで『紫式部日記』であまり触れられていないのですが……欠損してしまったのでしょうかね。
娘から立て続けに二人の皇子が産まれ、道長の権威はさらに強まりました。
一方で、窮地に陥ったのが、彰子の手元で育てられていた定子の子・敦康親王です。
母后の定子は既に故人であり、その兄である伊周は「縁者が彰子と敦成親王を呪詛した」という疑いで失脚していました。
そしてその伊周は寛弘七年(1010年)1月に死去。
母方の権威が何よりも重視されるこの時代、敦康親王はたとえ立太子→即位したとしても、右腕となれる人物がいないという状況になってしまいます。
こうした状況を受け、道長は、藤原彰子の周辺を固め、そして、彰子本人も動き始めました。
実は彼女、伊周の次女に女房勤めを要請していたのです。
いったい何のために?
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