長保2年12月16日(1001年1月13日)は藤原定子の命日です。
大河ドラマ『光る君へ』の序盤から中盤にかけ、最も注目されたこの女性。
一条天皇との仲睦じい様子や、二人の間に生まれた第一皇子・敦康親王の悲劇など、最後まで視聴者の心に残る存在でしたが、こうなると気になるのは史実の姿かもしれません。
突然、髪を切って出家したのは本当だったのか?
清少納言との関係性は?
ドラマでも取り上げられた辞世の句は?
最終回を迎えて今なお印象深い藤原定子の生涯を史実面から振り返ってみましょう。
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道隆の長女として生まれ
藤原定子は貞元元年(976年)、藤原道隆の長女として生まれました。
母の高階貴子は漢文の知識も豊富な才女。
一条天皇の父帝・円融天皇の時代に宮仕えしていた頃は「高内侍」と呼ばれていました。
道隆の父であり、定子の祖父は藤原兼家ですから、かなり高い身分で生まれたのは、大河ドラマ『光る君へ』ですでに皆さんご存知のことでしょう。
ただし、この時代の女性によくあることで、裳着(もぎ・女性の成人儀式)以前はどんな少女だったのかほとんどわかっていません。
永祚元年(989年)には、既に摂政で藤氏長者となっていた兼家の腰結いで裳着を済ませていて、藤原北家の姫として輝かしい将来が待っていました。
実際、その翌年の正暦元年(990年)になると、ときの帝である一条天皇の元服に伴い、定子が入内。
皇族や貴族の男子が成人した際の最初のお相手(添い臥し)として選ばれたと思われます。
同年5月になると、定子の立場はさらに強くなります。
祖父の兼家が体調を崩して官職を退き、その跡を継ぐ形で父の道隆が関白(のち摂政)・藤氏長者となり、定子も中宮に立てられたのです。
摂政は本来、天皇が元服前に即位した場合に設けられる職であり、関白→摂政の順番は矛盾しているのですが、一条天皇の元服は兼家のゴリ押しだったので、周囲も本人も「まだ子供」という意識が抜けきらなかったのでしょう。
正暦元年(990年)の時系列を整理しておくと、こんな感じです。
1月 一条天皇の元服/定子の入内
5月 兼家が官職を辞して道隆に継承
7月 兼家の薨去
10月 定子が中宮になる
上記の流れを見て、「ん?」と思った方もおられるでしょうか。
実は、定子が立后した時点では、兼家の喪中なのです。
死を【穢れ】の最たるものとする貴族社会では眉をひそめられ、さらにもう一つの問題もありました。
本当は、中宮の席は埋まっていたのです。
中宮にねじ込まれる
当時、后の字がつくポストは太皇太后・皇太后・中宮(=皇后)の三つありました。
そして藤原定子が入内したころは以下のような体制になっていたのです。
まだ上記の三人は存命中であり、これ以上の”后”は存在できない状況。
しかし道隆は、自分の娘を天皇の正妻にするため、本来は中宮の異称だった「皇后」を分離し、遵子を中宮から皇后に変えさせて、定子を「中宮」に立てました。
これにより一体どんな体制となったか?
◆太皇太后:昌子内親王
◆皇太后:藤原詮子
◆先帝皇后:藤原遵子
◆一条天皇中宮:藤原定子
この時点で貴族層が最も嫌う「先例破り」をしてしまったのですね。
ドラマではロバート秋山さんが演じる藤原実資の日記『小右記』でもボロクソに書かれています。遵子の弟である藤原公任も、おそらく憤慨なり不快感なりを覚えたことでしょう。
道隆から続く家系は「中関白家」と称されますが、彼らは終始、
自分の感情>>>>>世間の評判や建前
という価値観が先行して、この後、自らの破滅を招いてしまします。
なんせ道隆は、まだ数え11歳の一条天皇にも圧力をかけたのではないかと思われます。
人柄が見えてくる『枕草子』
藤原道隆が不動の権力を得るためには、次代天皇の外祖父になることが不可欠。
となると、一分一秒でも早く定子と子作りをして皇子を産んで欲しい。
定子の女房である清少納言が書いた『枕草子』には、
「昼間から定子のもとに通い、二人で御帳台にこもって、6時間近く出てこなかった」
という記述があります。
よほど好色な人ならありえますけれども、一条天皇はそこまでというタイプでもありません。
一条天皇と定子は二人でちょっとしたイタズラをするお茶目さもあり、仲が良かったのは事実のようなので、単なる昼寝や二人だけの語らいという可能性も否定できませんが……。
なんというかこう「舅にあれこれ言われて励まざるを得なかった」というほうがしっくり来るんですよね。
何も昼間からではなく、夜になってからでも問題ないはずですし、長時間の滞在ではなく何日か続けて通ったって問題ないはずですし。
その『枕草子』からは、定子の人柄も見えてきます。
ときに悪ふざけしすぎな清少納言たちをたしなめている場面があり、年若いながらに主人としての自覚を持ち、ふさわしい振る舞いをしようとしていたことが浮かび上がってくるんですね。
父の道隆も「女房たちによく目をかけて奉公させなさい」と言っていたようなので、父の薫陶でしょうか。
有名な「香炉峰の雪いかならん」の逸話のように、清少納言の才覚を皆に知らせて立ててやろうとしたことも複数回あります。
清少納言が「歌は苦手なので詠みたくありません」といい出したときは許したり、長引く宿下がりにも怒らず、しばらくしてから「そろそろ出仕するように」とうながす歌を贈ったりなど、色々と気を遣っていたようですね。
むしろ清少納言が主人に対して傍若無人すぎるような気がするような、しないような。
しかし、そんな日常は長く続きませんでした。
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