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【藤原定子】
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一条天皇の皇子を産むも周囲の視線は厳しく
長保元年(999年)、一条天皇にとって初めての皇子である敦康親王を産みました。
しかし、相変わらず、出家した身で再び参内したことや懐妊したことに対する周囲の視線は厳しいものでした。
藤原実資の日記『小右記』や藤原道長の『御堂関白記』には、出産に関する記述がほとんどないのです。
道長は全く触れず、実資にしても何とも素っ気ない記述。
「卯の刻に中宮(定子)が男子を産んだ。世に『横川の川仙(かわひじり)』という」
「横川の川仙」というのは、当時、風変わりな僧侶として知られていた行円のことです。
彼は“頭に仏像を戴き、鹿の皮を身にまとう”という、僧侶にしては奇特なファッション。
マリー・アントワネットはヘアスタイルの一環として頭にミニチュアの帆船を飾ったそうですが、なんだか似たようなものを感じます。
実資は前例のないことには厳しいタイプですので、出家姿での懐妊・出産というだけで眉をひそめていたことは間違いありません。
そうは言っても”中宮の皇子出産”は皇室にとって最大の慶事です。
それでも道長の日記が無視するような真似をしたのは、定子の出産した11月7日に娘の藤原彰子が女御となっていたからでしょう。
彰子の入内以前ならともかく、道長が定子の皇子出産を喜ぶはずはありません。
書き留める気にならなかっただけでなく、「負けてなるものか」とばかりに策が巡らされます。
長保元年の末(新暦では1000年1月)、冷泉天皇の中宮だった昌子内親王が崩御しました。
冷泉天皇は「奇行があった」という理由で若いうちに位から降ろされ、昌子内親王は子供もないまま身位だけ保たれていたような状況でしたが、太皇太后とされていました。
その彼女が亡くなったということは、道長の兄・道隆が無茶振りして作り出した「4つの后」の椅子が一つ空いたことになります。
さっそく道長は、一条天皇に彰子の立后を打診すべく、天皇の側近である蔵人頭を務めていた藤原行成に意図を伝達。
行成は、一条天皇に彰子立后について進言したとされています。
その内容はいくつかありますが、定子に直接関係するところだけ抜粋すると、
「今の藤原氏出身の后妃たちは全員出家していて祭祀を務められないので、彰子様を立后することには問題がない」
というものです。
ここでも定子の衝動的な行動や、その原因である長徳の変(伊周・隆家の行動)が尾を引いているんですよね。
あるいは、定子の立后自体も道隆によるゴリ押しだったので、今さら反論できる状況ではない――こうして長保二年(1000年)2月、彰子が中宮になり、中宮だった定子は皇后と改められました。
しかし一条天皇による定子への寵愛は衰えません。
3月ごろに三回目の懐妊を迎えるのですが……。
定子の血は繋がったのか?
再び宿下がりをした藤原定子は長保2年12月15日(1001年1月12日)、第三子の媄子内親王を産みました。
しかし出産の際に後産が下りず、その翌日、16日に崩御してしまいます。
まだ数えで25歳の若さ。
彼女の崩御後、辞世の句といえる歌が三つ見つかりました。
最も有名なのは『後拾遺和歌集』哀傷の巻の最初にある、この一首でしょうか。
夜もすがら 契りし事を 忘れずは こひむ涙の 色ぞゆかしき
【意訳】夜通し契ったことを覚えていらっしゃるのであれば、あなたは私を恋しく思って涙を流すでしょう。その涙の色を知りたいものです
詞書(ことばがき・内容を説明するまえがき)によると、定子が崩御した後、御帳台の帷子(かたびら)の紐に手紙が結び付けられていて、その中に書かれていたといいます。
この歌は後年に編纂され、小倉百人一首の原型となった『百人秀歌』にも採られました。
手紙には、他にも二首の歌が収められていました。
知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くも いそぎたつかな
【意訳】死出の旅路には誰一人知り合いもおらず心細いですが、今は急いで発たなければ
煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それと眺めよ
【意訳】火葬されないので煙や雲にはなれませんが、草葉の露を私と思って眺めてください
いずれも一条天皇に宛てての歌だと思われますが、後の2つは兄弟や子供たち宛と解釈しても良さそうですね。
その後、彼女の子供たち(脩子内親王・敦康親王)は定子の末妹・御匣殿に、媄子内親王は東三条院詮子(藤原詮子)に預けられました。
さらに御匣殿と詮子が亡くなった後は、敦康親王が中宮の藤原彰子に、両内親王は中関白家に引き取られたといいます。
一条天皇の意向を受けた彰子は、敦康親王を後押しするつもりでいたようですが……結局、彰子が二人続けて皇子に恵まれたため、后腹の皇子であるにもかかわらず皇太子になれません。
次女の媄子内親王は幼くして病死。
長女の脩子内親王だけは、独身のまま54歳まで長生きし、天寿を全うしています。
なお、敦康親王には一人娘の嫄子女王(げんしじょうおう)がいて、後朱雀天皇(彰子の次男)に入内し、二人の皇女に恵まれましたが、二人とも生涯未婚。
つまり、男系女系ともに定子の血を繋げた人はいないということになります。
内親王は基本的に
いずらかの道しかないので、致し方ないところですが。
定子の宮中における住まいは、登華殿と梅壺(凝花舎)のどちらか、あるいは両方だったとされています。
梅は春の訪れを告げる花であり香り高いことから、一条天皇最初の后かつ、自身の崩御後も色濃く存在感を残した定子にはピッタリのようにも思えます。
彼女が健在だった頃にそのような意図はなかったでしょうけれども……。
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長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
『後拾遺和歌集』
倉本一宏/日本歴史学会『一条天皇(人物叢書)』(→amazon)
他