意見が真っ二つに分かれそうですが、今回のお話を読んでいただくと、後者派の方も少し考え方が変わるかもしれません。
貞観十年(868年)12月16日は、陽成天皇が誕生した日です。
大河ドラマ『光る君へ』の舞台にはかなり早いですし、よほど平安時代か百人一首の好きな方でないと注目されない天皇の一人でしょう。
しかし、その生涯は何やら陰謀のかほりも漂ってきます。
さっそく本題に移っていきましょう。
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生後3カ月で太子となり9才で即位
陽成天皇は、清和天皇の第一皇子として生まれました。
長子ですから生後三ヶ月で立太子されたのはまだいいにしても、9歳で即位させられているのは
「どう見ても外戚の力です」
とツッコまざるをえません。
一応、父である清和天皇が存命中は院政を行っていましたけれども、摂政に就いていた母方の伯父・藤原基経が何やらアヤシイ感じがします。
というのも、清和天皇が亡くなってから、基経はあまり出仕しなくなってしまったのです。
この頃の陽成天皇はやっと12歳ですから、まだ摂政がいてもいい年頃。
むしろ、後ろ盾がなくなった幼帝をいよいよ支えねばならないですよね。
基経が自分の娘を入内させようとしていたのを、陽成天皇の母・高子(たかいこ)が断ったからという説があります。
そして、陽成天皇15歳の頃、宮中で大事件が起きます。
陽成天皇の乳兄弟が【殴り殺された】のです。
上皇生活なんと65年間
公式には「経緯・犯人ともに不明」ということになっております。
しかし、場所が場所なだけに、
「陽成天皇がやってしまった、あるいは少なくとも関与していた」
とされ、陽成天皇は基経に退位させられてしまいました。
そしてその後65年間、上皇のままだった上に、陽成天皇の血筋に皇統が戻ることはなかったのです。
こうした複雑な経緯のため、次に即位した光孝天皇は自分の子女を全て臣籍に下しました。
陽成天皇のほうがずっと年下でしたから、
「一時は皇位をお預かりしますが、いずれそちらに皇統をお返しします」
という意思表示だったのでしょう。
しかし……。
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