天元5年(982年)12月16日は源高明(たかあきら)の命日です。
大河ドラマ『光る君へ』をご覧になられていた方なら、すぐにピンと来るかもしれません。
高明とは、道長の妻である源明子の父のこと。
そこで思い出していただきたいのが、ドラマで源明子が登場した直後のことです。
当初の彼女は、道長の父である藤原兼家をことのほか恨んでおり、兄の源俊賢とは異なり、「兼家に死を!」という呪詛を強行するほどでした。
あれは何故か?
というと、兼家をはじめとする藤原北家の一族が、仕事がデキる皇室出身の源高明を【安和の変(969年)】という政変で没落させ、地方へ左遷させたからなのです。
果たしてそれはどんな事件だったのか。
源高明の人となりや立場を踏まえて、事件を振り返ってみましょう。
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正二位・左大臣の源高明
源高明は延喜十四年(914年)生まれ。
父は醍醐天皇で、7歳のときに源姓を賜って臣籍となりました。
臣籍に下ったとはいえ皇子ですので、昇進は速く、安和二年当時には正二位・左大臣となっていました。
これより上の位階は正一位・従一位、官職は太政大臣くらいしかありませんから、位人臣を極めたといっても過言ではありません。
さらに高明の娘は村上天皇の皇子・為平親王の妃になっていましたので、天皇の外戚になる可能性もありましたが、康保四年(967)9月に守平親王(のちの円融天皇)が立太子され、その道は閉ざされてしまいます。
当然、そこにはきな臭い理由が考えられます。
為平親王にせよ守平親王にせよ、二人共、母は藤原北家出身の中宮・藤原安子となります。
では何が異なるのか?
というと、守平親王は数え6歳で母と死に別れ、その後は叔母である藤原登子や、叔父の藤原兼通(兼家の兄)に育てられていたことです。
いわば”懐柔済み”であり、兼通らとしては守平親王をプッシュしたい。
ついでにいえば、守平親王が無事成長した暁には、兼通の娘を入内させて皇子をもうけてもらいたい。
このとき邪魔になるのは誰か?
為平親王はもちろんそうですが、その舅である源高明も疎ましい存在でした。
もしも守平親王が皇子に恵まれなければ、為平親王の息子に皇位が巡ってくる可能性もゼロではなく、そうなると高明が外戚として台頭してくるのは必至です。
兼通らの一族としては、その可能性を早めにキッチリ潰しておきたい。
そのためにはどうすればよいか?
当時の世情を見ておきましょう。
高明が邪魔者にされた理由
ときの帝は冷泉天皇でした。
現代でも、奇行など悪い意味で有名になってしまわれた方であり、当時は数え20歳の若者。
精神だけでなく体も弱かったとされ、退位も間近かと噂されていた頃でした。
当時は以下のように
天皇: 冷泉天皇
皇太子: 守平親王(のちの円融天皇/光る君へ坂東巳之助さん)
高明の娘婿:為平親王
皇太子である守平親王が皇位につくのは間違いない流れです。
そして兄である為平親王が弟である守平親王(のちの円融天皇)の皇太子になることはまずありません。
しかし、権力者次第で何があるのかわからないのも事実ですから、藤原北家としてはやはり高明を失脚させておきたい。
そんなわけで、何かしらの謀議がなされたようです。
歯切れの悪い言い方になりましたが、実は【安和の変】が具体的にどのような計画で実行されたのか、ハッキリとは伝わっていません。
いわばクーデターですから、そんなものが明確に残っているほうが不自然ですし。
変そのものは、あっさりしているというかスピーディーというか、以下のような展開で終結します。
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