991年3月1日(正暦2年2月12日)は円融天皇の命日です。
大河ドラマ『光る君へ』で坂東巳之助さんが演じた姿が印象に残っているでしょうか。
何よりインパクトあったのが藤原兼家に毒を盛られ、そのことで吉田羊さん演じる藤原詮子と完全に破局してしまったことでしょうか。
帝といえど政争の道具にしかすぎない。
だからこそ劇中では、雅な顔にイラ立ちや焦燥感が滲むことも少なくありませんでした。
では、史実において円融天皇はいかなる状況にいたのか?
藤原氏の外戚政治に振り回され続けた生涯を振り返ってみましょう。
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日本型外戚政治の特異性
外戚政治とその弊害――。
この点に着目するとき、最も反応されるのは日本史ではなく『三国志』ファンの皆様かもしれません。
宦官とセットにして、後漢の政治が腐敗しきった温床として語られる外戚問題。
あらためて説明しますと、【外戚】とは皇帝の皇后一族が政治権威を握ってしまうことであり、『三国志』では、霊帝の何皇后と、その兄である何進がセットで登場します。
中国では、この外戚を問題視しました。
そのため後漢から魏晋への『三国志』時代が終わると、北魏では恐ろしい排除手段が確立されます。
【子貴母死(しきぼし)】です。
子が皇太子になると生母は死を賜り、殺されるという仕組みでした。
しかしこの制度はメリットよりデメリットのほうが勝ってしまい、北魏のみで終わり。
以降も中国では、母方の政治排除に手こずり、なかなかシステムの確立ができません。
隋文帝の皇后である独孤伽羅は、権勢をふるい、夫すらほとほと困り果てたほど。そうして試行錯誤を繰り返すのですが、結局、清の西太后まで断続的に弊害は続いてゆきました。
では日本はどうか?
中国の弊害を目にしてきたはずなのに、無策でした。いえ、何も対策を講じないどころか、さらに強化させた外戚政治が蔓延ります。
例えば中国の外戚政治は一代で終わります。同じ一族から何代にもわたり、皇后を送り込むようなことはありません。
しかし日本は違う。
例えば2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、一年かけて北条氏による鎌倉幕府の支配体制が描かれましたが、世界史的にみても稀に見る女系の王朝乗っ取り事例といえます。
そんな北条氏の前例にいたのが『光る君へ』の藤原氏です。
円融天皇はこの藤原氏により人生を翻弄され続けた人物でした。
生まれてすぐ藤原氏の切り札となる
円融天皇は天徳3年(959年)、村上天皇の第5皇子・守平親王として誕生しました。
中宮である藤原安子を母とする皇子としては3番目にあたり、応和4年(964年)、その母・安子が亡くなります。
彼女の死後は、叔母である藤原登子(重明親王の妻)、叔父である藤原兼通に庇護されました。
兼通は後に藤原兼家と政争を繰り広げる兄弟ですが、ともかく円融天皇は藤原氏一族にとっての大切な切り札と言えます。
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幼少期から、彼は自分の意思よりも藤原氏により人生が左右されながら、3年後の康保4年(967年)、まずは兄の憲平親王が冷泉天皇として即位しました。
冷泉天皇は子がなく病弱。後継は早急に決めねばなりません。
では、次の東宮(太子)は誰なのか?
以下の二人を巡って、対立構造が生じます。
為平親王:妃の父が源高明
守平親王:藤原氏の切り札
長幼の序がない時代とはいえ兄の為平親王が東宮となるのが自然であるにもかかわらず、藤原氏が守平親王を強引にねじこんでくる。
結果、その外戚にあたる左大臣・源高明との間で政争が繰り広げられ、藤原氏が勝利を収めました。
わずか9歳の守平親王が東宮とされたのです。
藤原氏にとって目障りな源高明は、後に【安和の変】が勃発し、謀反を企んでいるという密告のせいで失脚へ追い込まれてしまいました。
ここで手を緩めないのが藤原氏です。
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