冷泉天皇

こちらは父親の村上天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

なぜ冷泉天皇は『光る君へ』の時代を生きたのに全く登場しないのか 原因は奇行?

寛弘八年(1011年)10月24日は、冷泉天皇が崩御された日です。

すでに位を退いていたので正確には「上皇」の表記が正しいのですが……それよりも大河ドラマ『光る君へ』をご覧の方は何かお気づきになりませんか?

冷泉天皇が崩御された寛弘八年(1011年)、その前年の寛弘七年(1010年)は藤原伊周が亡くなった年。

つまり、ドラマの舞台のど真ん中で生きていた方であり、いま注目されている三条天皇(居貞親王)や【長徳の変】で矢を放たれた花山法皇の父親だったのです。

なのになぜ、ほとんど触れられること無く進んでいくのか?

確かに一世代前の方ということもありますが、実はこの冷泉天皇、奇行エピソードが多い方として知られ、劇中に登場させると何だかややこしくなってしまうからでは?とも思えます。

では一体なにがあったのか、その生涯を振り返ってみましょう。

※トップ画像は冷泉天皇の父である村上天皇となります

 


村上天皇の第二皇子として生誕した冷泉天皇

冷泉天皇は天暦4年(950年)、村上天皇の第二皇子として生まれました。

母親が中宮藤原安子だったため、生まれて間もなく皇太子(東宮)になっています。

異母兄で第一皇子の広平親王は母親の身分が低かった上、幼い頃から有力な後ろ盾がなく、政治の中枢から締め出されたような形になってしまいました。

『光る君へ』をご覧になっていれば、この辺のご理解も早いと思われますが、道長以前から政治劇ドロドロの世界だったんですね。

なお、皇位継承者については以下のような要素で決まることが多いので、覚えておくとより理解が深まるかもしれません。

1.母親の身分と君主からの寵愛度

2.生まれ順

3.母親の実家の権力

4.その他貴族の後押し

5.本人の妻の実家がどのくらい権力を持っているか

※おおよそ上のほうが優先度が高い

この頃は結婚していないので5は除外にしても、冷泉天皇は1・2・3全てがMAXレベルだったので、幼児のうちから将来が確定したというわけです。

 


男性シンボルの絵を手紙で送りつけた!?

康保四年(967年)、父・村上天皇が崩御したため、冷泉天皇は満17歳で即位。

このくらいの歳であれば親政をしてもおかしくはありませんが、「奇行が多い」という理由で、母方の大伯父である藤原実頼が関白になりました。

実頼は、藤原公任の祖父になりますね。

藤原公任(月岡芳年『月百姿』)/wikipediaより引用

では一体どんな奇行だったのか。

というと30年ほど後の学者・大江匡房(おおえの まさふさ)が書き記しています。

それだけの時が過ぎても語り継がれるほどインパクトがあったのか、その間に拡大・脚色されたのか、どちらなのかはわかりませんが、ざっと以下の通り。

・足が傷ついても一日中蹴鞠をしていた

・子供の頃、父である村上天皇への手紙の返事に男性のシンボルの絵を送りつけた

・清涼殿(天皇の住まい)の近くにある見張り小屋の上に座り込んだ

・病気のため寝込んでいたとき、大声で歌を歌った

最初と最後は異様といえなくもありませんが、他の点は子供のよくやる行動といってもいい気がしますね。

ヒステリックなところはあったかもしれませんが、家臣や女性に乱暴をしたというわけでもありませんし……子供の発達に詳しい方の見解をお聞きしたいところです。

ずっと後の話として「退位後の御所が火事になり、避難する途中、牛車の中で大声で歌を歌っていた」というものもあります。

これにしたって、「いきなり歌い出す」人は現代でもたまにいますしね。まあ、当時の常識からは外れているにしても。

 

 


即位直後から次期皇太子問題が持ち上がる

こういった「奇行」と生来の病弱さが手伝って、即位直後から次期皇太子問題が持ち上がります。

まるで幕末の徳川家定(江戸幕府十三代将軍)あたりのようですが、次期天皇として有力視されたのは二人です。

いずれも冷泉天皇の同母弟で、村上天皇の第四皇子・為平親王と、第七皇子・守平親王(後の円融天皇)。

この場合、上記の法則に従えば為平親王が皇太子になるのが順当なところです。

しかし、それが通ると為平親王の舅(妃の父)で左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)が外戚となり台頭してしまう。

源高明は、元は醍醐天皇の第十皇子なので、臣籍降下したとはいえ実質的には皇族みたいなもの。

『光る君へ』で瀧内公美さん演じる源明子、あるいは本田大輔さん演じる源俊賢の父親であり、失脚に追い込まれ、復讐に燃える明子の姿が劇中でも描かれましたね。

そう、藤原氏が、為平親王と源高明を追い込んだのです。

969年(安和二年)3月25日、テキトーな役人の謀反をでっち上げ「首謀者は源高明です!」と主張しました。

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