安政5年(1858年)7月6日は徳川家定の命日です。
歴史ファンにとっては「愚鈍」でお馴染みの徳川十三代将軍。
混乱の幕末期を迎えるにあたり、逆に幕府を疲弊させた痛々しい人物としてフィクションでは描かれがちですが、史実においても本当にダメな人物だったのか?
これまでほとんど注目されることのなかった十三代将軍・徳川家定の生涯を振り返ってみましょう。

徳川家定/wikipediaより引用
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子沢山の父・家慶、生き延びた唯一の男子
徳川家定は文政7年(1824年)、12代将軍・徳川家慶の4男として、江戸城で生まれました。
母は幕臣・跡部惣左衛門正寧(諸説あり)の娘・おみつ。
彼女は堅子あるいは本寿院という名でも知られ、例えば大河ドラマ『西郷どん』では泉ピン子さんが演じられてました。

西郷どんでは泉ピン子さんが演じた本寿院イメージ
先代の家慶には、正室・楽宮喬子女王との間に、長男・竹千代がいましたが、わずか一年にも満たないうちに夭折。
喬子はこのあと数度懐妊するも、流産と夭折ばかりで、一向に子供が育ってくれません。
実に、家慶は14男13女もの子供に恵まれながら、成長した男子は家定と慶昌(一橋家第6代当主)のみであり、家定が将軍を継ぐこととなったのです。
ところが、その家定も身体は病弱で……。
そんな状況の中、父の家慶は、老中首座・水野忠邦による【天保の改革】と、その反発に対応するため疲れ果てていました。
幕政への不満を募らせる民衆という「内憂」。
沿岸部に姿を見せはじめた捕鯨船。
【ナポレオン戦争】が集結し、東へ目を向け始めた列強という「外患」。
家慶が将軍になってから次から次へと降ってくる内憂外患に対し、心休まるときのない苦難の人生を送っていたのです。

徳川家慶/wikipediaより引用
そして嘉永6年(1853年)6月3日、マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が姿を見せると、家慶はもはや限界に達したのでしょう。
6月22日に倒れると、そのまま息を引き取ってしまいました。
死因は熱中症と伝えられ、享年61。
その結果、病弱な青年である徳川家定が、13代将軍に就任することとなったのです。
家定にとっての救いは、新進気鋭の老中・阿部正弘が登用されたことでしょう。
家慶の時代に若くして抜擢された阿部は、優秀な政治家でした。

阿部正弘/wikipediaより引用
将軍としての“務め”
将軍となった徳川家定には、政務以外にもなすべきことがありました。
お世継ぎを授かることです。
もしも彼の生まれた時代がもっと平穏であれば、そこまで切迫することもなかったかもしれません。
しかし、そうではない時代に彼は生きていました。
将軍世子であった時点で、家定には京都から正室が迎えられていました。
鷹司任子です。
彼女は嘉永元年(1848年)、疱瘡に罹り、享年26で没してしまい、その翌年、一条秀子が輿入れします。
秀子は背が低く、片足が不自由であるとささやかれました。
風刺画を得意とする歌川国芳の描いた『きたいな名医難病療治』という作品には、片足だけ高下駄を履いた女性が描かれています。

歌川国芳『きたいなめい医難病療治』/出典:日文研デジタルアーカイブ(→link)
それが秀子だとされ、彼女の背の低さをからかう落首も江戸市中で流行りました。
ただ、それを笑った人々もあまり気分は良くなかったかもしれません。なぜならそのわずか半年に命を落としてしまうのです。
いずれにせよ彼女の死はゴシップの種となり、家定の側室であるお志賀が毒殺したという噂がはびこりました。
江戸っ子たちは、もはや将軍様の権威なぞ気にしちゃいない時代になっていたのです。
篤姫の輿入れ
安政3年(1856年)、右大臣・近衛忠煕の養女である三人目の正室が輿入れしてきます。
薩摩藩主島津家御一門生まれの篤姫です。

篤姫/wikipediaより引用
この輿入れは政治工作ありきのものとされますが、島津家にとって将軍家との姻戚関係は誇りでもありました。
島津家は明治維新で関ヶ原以来の恨みを晴らしたなどと言われますが、当時は将軍家との距離の近さを誇っていたのです。
11代・家斉は一橋家出身から跡を継いだ将軍で、就任前に娶った正室は、薩摩藩島津家出身の広大院。
徳川将軍の姻戚となったことは、島津家の栄誉となりました。この広大院という前例が、島津出身の御台所を送り込む根拠とできたのです。

茂姫(広大院)/wikipediaより引用
京都の朝廷と近い距離を誇っていた、長州藩の毛利家とは異なります。
家定の側室としては、既にお志賀がいました。
もっとも彼女はかなり歳上で、家定にとってはしっかりものの母や姉のような存在感だったのかもしれません。
お志賀は、荒唐無稽なゴシップ種としての側面が強調され、子もいませんでした。
京都から来たこれまでの姫君と異なり、篤姫は身体壮健でした。
それでも家定自身が病弱では心もとないものがあり、
次の将軍は誰か?
と、政治工作が激化してゆくことになります。
黒船来航という未曾有の危機を迎え、一致団結せねばならない時に政治抗争へ発展してしまう――全ては家定の病弱さが原因と言えるでしょう。
そしてそのことが、家定という人物を考える上でも重要かもしれません。
江戸っ子までもが、風刺画や落首で将軍がらみのスキャンダルを面白おかしく楽しんでしまう状況。
あの弱い将軍ではどうにもならないと、大名家までもが噂を流す。
その発信源には、あのトラブルメーカーである徳川斉昭までいたのでした。
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