蘆名家滅亡

伊達輝宗(左)と伊達政宗/wikipediaより引用

蘆名家

戦国蘆名家はなぜ滅亡したのか 会津が輝宗&政宗親子の手に落ちるまでの顛末

2025/07/05

1631年7月6日(寛永8年6月7日)は会津蘆名家・最後の当主だった蘆名義広が亡くなった日です。

保科正之や松平容保など、松平一族の本拠地として知られる会津――。

いにしえから東北の玄関口として知られており、鎌倉時代以降は、佐原義連(よしつら)が源頼朝から拝領したのをキッカケに、この会津地方は蘆名家の領地でした。

戦国期に入り、蘆名盛氏が16代当主になると同家は躍進、東北エリアでぐいぐいと存在感を増していきます。

蘆名盛氏/wikipediaより引用

もしも伊達政宗が盛氏と同世代だったら?

やられていたのは伊達家のほうかもしれない。

そんな存在感すら有していたのですが、天正8年(1580年)に盛氏が亡くなると、蘆名家は滅亡への坂道を転げ落ちていきます。

盛氏の死によりパワーバランスが揺らぎ、チャンス到来した大名がおりました。

それが政宗の父・伊達輝宗でした――。

伊達輝宗/wikipediaより引用

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蘆名のライバル田村家から迎えた嫁の愛姫

伊達輝宗は、蘆名盛氏の息子・蘆名盛興の義兄でした。

盛興正室の彦姫が、輝宗の妹だったのです。

この輝宗宛てに、義弟の盛興からではなく、妹・彦姫から書状が出されていたことが確認されています。

蘆名を襲う異変をその手紙から察知したとしてもおかしくはない。

智謀をフル回転させて、チャンスを掴みにいく輝宗。

輝宗は、妹の嫁ぎ先・蘆名をバックアップするのではなく、伊達家のものとするつもりだったのか?

その痕迹は、婚姻戦略に如実に現れます。

嫡男・伊達政宗の正室を田村家から迎えたのです。

愛姫として知られる彼女ですね。

愛姫(陽徳院)/wikipediaより引用

愛くるしい名前とイメージ、坂上田村麻呂の子孫という経歴が注目される愛姫ですが、蘆名のことを考えると、また別の要素が見えて来ます。

【愛姫の両親とは?】

父:田村清顕
母:相馬顕胤の娘

→蘆名家にとって田村家はライバル

つまり、伊達家にとって田村家は

【敵(蘆名)の敵(田村)は味方】

という図式になり、息子・政宗の婚姻そのものが蘆名家にとって大きな牽制となりました。

フィクションの輝宗は、政宗と対比してなんだか頼りないお父さん像で描かれがちですが、史実においては違います。

彼は賢く逞しくしたたか。

婚姻関係もフル活用できる抜群のセンスを持ち合わせておりました。

 


輝宗、傾いていた最上家から妻を娶る

一方、輝宗自身の正室・義姫は、最上義守の娘であり、最上義光の妹でした。

【長身の美女で、文才抜群の器量良し】

当初、最上家では娘を嫁がせるため、猛烈プッシュをかけてきました。

とはいえ、そこは頭脳明晰な輝宗です。

そんな表向きの売り文句に釣られて正室を迎えるほど甘くはありません。

輝宗と義姫の祝言とは、奥羽戦国史の新局面が到来したことを告げる「ターニングポイント」でした。

伊達家と最上家の関係が五分五分かつ非常に強固なものとなったのです。

実はこれ以前の最上家は、伊達稙宗を相手にした【永正長谷堂合戦(1514年)】で大敗し、伊達家の傘下同然となって家は傾いておりました。

伊達稙宗/wikipediaより引用

武力は減少する一方。

頼るは、足利一門の血統だけという、危なっかしい状態に落ちぶれかけていたのです。

そんな中、第10代当主・最上義守が、伊達家の【天文の乱】に乗じて踏ん張った。

周囲に存在感を見せつけ、伊達家の傀儡政権から独立勢力になるまで順調に息を吹き返していたのです。

 

奥羽探題ブラザーズ 輝宗&義光!

そんな義守の嫡男にあたる第11代当主・最上義光は、鉄棒をぶん回しながら頑張る、やる気満々の人物でした。

元気バリバリでかつ実力もあり、勢力としては上り調子。

長谷堂合戦で直江兼続を追撃する最上義光『長谷堂合戦図屏風』/wikipediaより引用

輝宗としては、義光時代の初期こそ対立していたものの、強引に押さえつけるよりもコンビになった方がメリット有りと察知します。

その陰には、才知あふれる義姫の姿もありました。

年齢的に近く、たった2歳差である輝宗と義光。

彼らは時流を読み取り、こんな計画を立てていきます。

「なぁ、羽州探題(=義光)よ。上方の連中は東北にどう来ると思う?」

「正直、やばいな。でも、ここは簡単に降るのではなく、ある程度、意地を張ってよい場面でない? 奥州探題(=輝宗)よ」

かくして組まれた奥羽探題の義兄弟コンビ。

義姫を間にして誼を通じ、早い段階から織田信長に鷹や馬の贈呈などをして渡りをつけておくのです。

織田信長/wikipediaより引用

足利の時代は終わり――そう読み解き、中央政権の統一という来たるべき日に備えて、東北での確固たる存在となろうとしていた二人。

「伊達領は海が遠いし、太平洋側は敵が多すぎる。情報網は、最上経由でよろしく。最上川の整備も頑張っているもんね。その辺よろしく頼むわ」

「おうよ、これからは外交の時代よ!」

とまぁ、ベタな会話にしてしまいましたが、この二人は実にスマートではありました。

ただし、問題がないわけでもありません。

「は? なに、伊達家が勝手に奥州仕切るつもりでいるわけ。ムカつくわ」

「最上もだよ! 出羽を自分の庭扱いすんな。調子に乗りやがって」

周辺勢力からすれば義光も輝宗も単なる若造コンビでしかなく、実際、伊達領の南・蘆名では、反伊達に向けた動きが活発化するのです。

 

ノブヤボの顔芸でお馴染み二階堂盛義さんの息子が

蘆名では盛氏の息子・盛興が若くして亡くなり、血統が途絶えてしまいました。

後継者は誰になったのか?

蘆名盛隆です。

須賀川二階堂氏7代当主・二階堂盛義の長男が養子入りしたのでした。

『信長の野望』では顔芸武将とされておりますが、それだけの人物では当然ありません。

彼の正室は、伊達晴宗を父とする阿南姫(大乗院)。

伊達晴宗/wikipediaより引用

東北にもいた女城主として『信長の野望』シリーズにも参戦しています。

一行でまとめますと【政宗の横暴にガチギレした親戚のおばさん】というところ。

【政宗にガチギレした親戚枠】ですね。

その阿南姫の息子・盛隆が蘆名家を継いだ理由は【人質だったから】というものでした。盛隆の父が蘆名盛氏との戦いに敗れ、預けられていたのです。

永禄4年(1561年)生まれであり、若くそれなりに英明であったと推察できる盛隆。

蘆名が二階堂家の人脈を頼ったとされていますが、それを言うならば奥羽の大名全般にそういう傾向があります。

では、盛隆はどんな人物だったのか?

というと、これが悲しいことにその像はぼんやりとしているのです。

むしろこのとき会津で目立っていたのは脇役こと上杉景勝でした。

【御館の乱】を制して、跡を継いだばかりの景勝。

上杉景勝/wikipediaより引用

名門上杉家を束ねる立場になった景勝は、実のところ危機に直面しておりました。

同盟相手の武田勝頼が滅び(1582年)。

最上義光がチラチラと庄内を窺い。

織田信長のプレッシャーが凄まじい。

すわ御家滅亡か――というところで明智光秀が【本能寺の変】を強行し、これにてようやく一息つくまで、上杉家は周囲から圧迫され続けていたのです。

16代の盛氏&17代の盛興の後を継いだ18代当主・蘆名盛隆は、この景勝との外交程度しか活躍の形跡は確認できません。

 


盛隆あっさり死亡 蘆名の受難は続く

実のところ盛隆も跡を継ぐだけで手一杯でした。

盛氏の死後、各地で蜂起が起こり、非常にストレスフルな状態。

そして事件は起きてしまいます。

天正12年(1584年)秋。盛隆は、家臣の大庭三左衛門に斬りつけられ、23歳の若さで没してしまったのです。

この一件、男色関係のもつれから、という俗説で知られますが、断定は難しいところ。

確かに男色がもたらす感情のすれ違いは、危険性が高いものではあります。

ただし、後世の潤色の可能性も考えられる。

盛興のアルコール中毒ともども、蘆名家の因果応報論ゆえの脚色も感じさせるところです。

ともかくここで明白なことは、盛隆の死で得をする勢力がいたこと――。

誰が蘆名の跡を継ぐのか。

蘆名家第19代当主は、盛隆の忘れ形見で、生まれて間もない亀王丸に定められました。

母は彦姫です。

伊達晴宗の四女であり、彼女は一度、蘆名盛興に嫁いで、その盛興が亡くなると、盛隆の正室とされていたのでした。いやはや伊達家の女性も、大変な運命にあります。

一方で、そんな深刻な状況を喜ぶかのような人物もおりました。

蘆名にとって最大の鬼門・伊達政宗。

ついに登場です。

伊達政宗/wikipediaより引用

 

待たせたな、独眼竜の登場だ

幼い頃はシャイだった政宗。

養育した虎哉宗乙の教育方針なのか。

父母がのびのびと育てたのか。

イケイケに育ち、酒も大好き、発作的な暴力傾向あり、ともかく元気が有り余っておりました。

天正12年(1584年)秋、父・輝宗の隠居と共に家督相続も済ませます。

ただし、ここは注意したいところで、当時の認識では二頭体制の続投方針であり、輝宗の権限はしっかりと残されております。

奥羽屈指の名門たる、そんな伊達家の家督相続です。

翌年の正月まで、お祝いが届けられ、使者も米沢まで続々とやってきました。

その中に、大内定綱という武将がおりました。

彼はなかなか複雑な事情を抱えておりまして、かつては田村家におりながら、独立を狙い、それを果たした知略の人物なのです。

おーい、定綱さーん。伊達家と、あなたが苦しめた田村家は姻戚関係ですよー。そう突っ込みたくなる。

自分の智謀におごったのか、政宗を過小評価したのか。

雪深い米沢に滞在するうちに、定綱はのこのこと米沢に来たことを「やっちまった……」と気づきます。

そこで、一月には脱出。

春になれば戻るかと思っていた伊達家ですが、一向に帰ってくる気配はありません。

政宗はイライラしながら、レター攻勢を仕掛けます。

大内、こら、早く来いよ、戻れよ、顔を見せろよ。そう急かす。遠藤基信ら家臣まで、催促に動員されております。

「戻れよ〜。殺さないからさ〜。知行もやるってば〜。米沢までカモンカモン」

「ありがたいお言葉ですが、たとえ滅亡しようと伊達だけは、無・理・で・す」

「は? もうあいつはぶち殺すしかない!」

「おいっ、そのくらいでいちいち殺さない!」

政宗がガチギレして、ブレーキをかけたのが輝宗でした。

それでもおさまらず、政宗は片倉景綱ら家臣を派遣して詰問しまくるのです。

片倉景綱/wikipediaより引用

しかし、定綱は強気でした。

「この大内定綱が最も好きな事のひとつは、自分で強いと思ってるやつにNOと断ってやる事だ……戦場で決着つけようぜ、じゃっ!」

定綱のことはいいから、蘆名の話にしよう。

そう言いたくなるかもしれませんが、実は両者には関係があるのです。

 


【敵(大内)を味方する奴(蘆名)も敵!】

どうしてこの状況に、蘆名家が関係あるのか?

定綱が頼れる勢力が、他ならぬ蘆名家でした。

政宗の中での図式は、こうなります。

【敵(大内)を味方する奴(蘆名)も敵!】

もう、ともかく何かを殴らないと気分がおさまらない!

現代人なら格闘ゲームやボクササイズがありますが、政宗は戦国大名ですので、そこは合戦。

「むしゃくしゃしてやった! 蘆名でもよかった!」

動機を一行でまとめると、こうなりかねない。

そんな独眼竜が家督相続後に挑んだ戦いが【関柴合戦】です。

絵・富永商太

えっ、政宗さん……そんなこと知りたくなかった!

もう嫌だ!

現実を否定したくなる気持ちはわかります。

私も、つらい。しかし、史実根拠があるんです……。

米沢と会津は近接しておりました。米沢街道が現在も残っております。

5月、ここを怒涛の勢いで攻めのぼり、檜原城近辺を攻略。

ちなみに現在は桧原湖(→link)が有名ですが、当時は存在しません。磐梯山の噴火により、明治時代以降生まれたのです。

そう言えば……伊達政宗が若くして当主になったことから、周辺大名をこうみなす意見を見かけたことがあります。

「いい歳こいて、まだ高校生くらいの政宗に酷くない?」

その理屈を適応しますと、蘆名家相手の政宗の振る舞いはこうなります。

vs亀王丸←親戚の乳幼児を殴る高校生の政宗

vs蘆名義広←周囲の制止を振り切って、中学生を殴り倒す大学生の政宗

政宗を擁護すると、ブーメランで政宗に突き刺さってしまう、そんな状況だったんですね。

 

レッツ・パーリー♪ 蘆名を滅ぼし会津ゲットだぜ

このあと、南奥羽(現在の福島県)は、政宗のパーリータイムによって荒らされまくります。

天正13年(1587年)の輝宗死後は、まるでブレーキが壊れたダンプ。

この輝宗の死については、虎哉宗乙が全力でダメ出ししているほど、無茶苦茶な経過でした。

彼自身の問題だけではなく、きょうだいが少なくて武力攻勢しかない、そんな事情もありますが、ともかく暴れん坊の甥に対して、せっかく伊達家とコンビを結成していた最上義光もついていけない。

伊達家と最上家が援軍を出し合うこと、贈答、書状のやりとりは続いますが、次第に苦々しい関係になっていきます。

「義光って、カッコつけているだけのカスじゃね?」

「政宗はやばい。あんな非常識なクソガキ、信じちゃダメ」

裏では互いを牽制し、罵倒し合うという、ギスギスした親戚(伯父と甥)でした。

とはいえ、そんな義光の苦悩だって、蘆名家に比べたらマシでしょう。

天正14年(1586年)、第19代・亀王丸が疱瘡で死去してしまうのです。わずか3歳でした。

ここで政宗は、こうなります。

「チャンス到来だ! 蘆名(会津)をゲットだぜ!」

 


そして会津蘆名家は滅びた

政宗は、父祖のようにきょうだいが多くはありません。

カードとなるのは、弟の小次郎のみ。

彼を蘆名家当主にすれば、伊達家の配下になるようなもの。そこで政宗は、蘆名の後継ぎとして小次郎を猛然とプッシュします。

はたして蘆名家の選択は?

「佐竹義重さんの二男を後継者にします」

「ぬぐぐぐぐぅううううう!」

天正15年(1587年)。

こうして佐竹家から迎えられた義広が、蘆名家第20代当主となりました。

この決定に対して、政宗がどれだけムカついたか。

「はぁ? よりにもよって俺が大嫌いな佐竹からって、喧嘩売ってんの?」

天正13年(1587年)の【人取橋の戦い】で、政宗は佐竹義重を相手に戦い、危うく死にかけております。

伊達成実の奮闘により命からがら戦場から逃げ出せたのです。

伊達成実/wikipediaより引用

このころ、政宗をさらにヒートアップさせる事態も発生します。伊達成実経由で、こんなオファーが届いたのです。

「会津に潜伏している大内定綱、伊達家に帰参したいってよ」

「ん? わざわざ殺されにきたいってか? どうしようかな♪」

「ただでさえ会津で人望ないのに、そういうノリ、やめてくださいよ……」

このあたりの詳細はハッキリしておりませんが、ノリノリの政宗を、片倉景綱が頑張っておさめたようではあります。

狙いもあったのでしょう。

「大内定綱は、会津の政情や地理を知っています。蘆名を倒すのであれば、あいつは泳がせた方が無難です」

「そうだな、言われてみれば、蘆名の方が俺にしつこく喧嘩を売ってんだよ(※政宗側の認識)。優先的にあっちから潰す」

そんな思惑の中、天正16年(1588年)、大内定綱は政宗に降ります。これを契機に蘆名家は、政宗によって骨抜きにされてゆくのです。

盛氏の死後、蘆名は空中分解しつつありました。

戦国期のど真ん中で、中興の祖(盛氏)が現れたかと思ったら、その直後から次々に当主が替わっていくのですから致し方ないところでもありましょう。

潮目は完全に政宗に向いてきました。

有力家臣の猪苗代氏も、伊達家に接触し始めています。

猪苗代は、盆地である会津に攻め入る地理的な要素としても、重要でした。

幕末の「会津戦争」でも、猪苗代陥落がターニングポイントとなっております。

会津戦争後に撮影された若松城/wikipediaより引用

政宗からすれば、これはもう敵に王手をかけたようなもの。

この流れの中で、政宗の親族にあたる彦姫も没してしまいます。

かくして、政宗にとって蘆名を潰す上での障害が消滅。

天正17年(1589年)【摺上原の合戦】へとなだれ込み、政宗はついに蘆名家に大勝利をおさめて因縁の地・会津を獲得するのでした。

会津の黒川城は抵抗することなく、あっさりと開門するほかありません。

蘆名義広は実家の佐竹氏を頼るため、常陸へ逃走。

かくして、佐原義連以来続いていた、会津支配者としての蘆名家は終焉を迎えるのでした。

※その後、義広は佐竹氏の秋田転封に従い、亡くなったのは1631年7月6日(寛永8年6月7日)のことでした

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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